わかるブログ

人生の後半に向かっていくにあたり、自分の引き出しの中身を色々書いて一旦空にし、新たに学びを深めていかざるを得ない環境を作ろうと思って始めたブログ

アメリカ人と日本人の違いは?

アメリカ人と日本人は、「知性」のとらえ方(と表現するのが適切かは自身がないが、、、)でも顕著な違いがある。アメリカ人にとって知性とは、平たく言うと「高度な文章を紡ぎだせること」であると感じる。

 

物事を「本場」で経験する、という事は非常に大切なことだと思う。たとえどんなに些細なことでも。例えば、子供のころ父親の転勤でアメリカに引っ越した、その初日。午前中にサンノゼ空港に到着して、とりあえず昼食をと、家族でマクドナルドに入ったのだが、そこで食べたハンバーガーは本当においしかった。日本で食べたものとは比べ物にならないほどに。小麦が違うのか、バンズの風味から違うように感じた記憶がある世界中で同じ製法で作られているマクドナルドでそれだけ違うのだから、他の事ではなおさらだ。

 

戦略コンサルティングも本場がある。アメリカだ。「The」firmと呼ばれるマッキンゼーが生まれたのは1926年のシカゴだし、ブルースヘンダーソンがBCGをつくったのはボストンである。

 

自分は幸いにして、BCGのボストンオフィスで働く機会を得たのだが、最初に戸惑った事の一つは資料のテイストの違いである。端的に言うと、アメリカ人は文章を書くことを強く好む一方で、日本人は「ポンチ絵」を好むのだ。結果としてアメリカ人の作るチャートは非常にモジモジ(文字〃)しているのである。(同じBCGとはいえ)日本でコンサルティングの基礎を学んだ自分が、ボストンオフィスに入って最初のプロジェクトで、「これはイケてるチャートだ」と思って自信をもって出したものにポンチ絵が含まれていたのだが、それを見たアメリカ人のプロジェクトリーダーの反応は「子供っぽいな、作り直して」だった。モジモジした、日本人からすると「醜い(読みにくい)」だけのチャートがアメリカ人からすると、「思考が詰まっている」と思えるらしい。

 

この傾向は、知的階層のより上位に行けば行くほど顕著になる。そのボストン時代に一度地元にあるとある研究施設とプロボノをやる機会があったのだが、プロジェクトをリードしていた研究所長は、当然のように「ワードで全てのアウトプットを作ってくれ」という人だった。普段論文等を読み慣れているだけあり、文章へのこだわりようは半端なく、(日本人の自分には十分理解できない)英語の細かいニュアンスも加味して言い回しを何度も何度も修正していた。そうやって最終的にワードのファイルが出来上がったのだが、それだけの人が書いただけあって、思考と知性の塊のような文章だった。それをテレカンで全員で読み合わせながら、会議が進むという、日本ではまずない体験をさせてもらった。

 

のちに振り返ってみると、アメリカ人が文章を好む、というか、より正確にはしゃべりでも文章でも、言葉を使ったコミュニケーションの巧みさ、にアメリカ人は知性を見出しているように思う(ポンチ絵は、民度の低い奴らに理解させるためには必要かもしれないが、Childishで、ビジネスの場では使うのは失礼にすら当たる)。「Consulting」も、「Consult」つまり、専門家に相談する、という意味がベースであり、アメリカ人のクライアントはコンサルタントのよどみないしゃべり、そこに表現される知見・知性を聞くこと(きれいなチャートを見る事ではなく)にお金を払っていた。それを反映してか、アメリカではステコミのプレゼンの前に、パートナー自らがメンバーの前でプレゼンの練習をするという場面が何度もあった。これは日本のコンサルティングの現場では経験したことがない。日本のパートナーもプレゼン前には練習しているのかもしれないが、日本ではどちらかというと流暢なしゃべりよりは、紙の面白さ、が重視されているように思う。

 

こう考えると、アマゾンでは原則としてパワーポイントが禁止されているのも、アメリカ人にとってはごく自然なことなのかもしれない。また同じ東京オフィスで比較しても、BCGよりマッキンゼーの方がチャートはモジモジしているが、これもマッキンゼーがGlobal one firmを標ぼうし、よりアメリカのスタイルを維持しているからかもしれない。