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人生の後半に向かっていくにあたり、自分の引き出しの中身を色々書いて一旦空にし、新たに学びを深めていかざるを得ない環境を作ろうと思って始めたブログ

マッキンゼーとBCGは何が違うのか(最終回-PJは「売る」べきか)

「Client first」という価値観。どのコンサルファームも似たような事を標榜していると思うが、マッキンゼーほど真摯にそれを追求できる環境を構築しているファームはないのではないか。この点においては、残念ながらBCGは2流である、と感じざるを得ない。

 

あるクライアント曰く、「BCGはサプリでマッキンゼーは劇薬」らしい。似たようなことは私がBCGに入社したころからずっと言われており、「本当に何かを大きく変えたいのならマッキンゼーに仕事を依頼する」という事を何度も聞いたことがある。これはなぜなのだろうか。なぜマッキンゼーは劇薬になりえるのだろうか。逆に言えば、なぜBCGは常にサプリなのだろう。

 

長らく自分では答えが分からなかったのだが、マッキンゼーに勤めてみて、これはコマーシャリズム(営利主義)をどのようにコントロールしているか、という事が非常に大きく関係している事象である、と捉えるようになった。(そして後述するように、このこと自体が、マッキンゼー・BCGといった狭い世界のみならず、コンサル業界全体に対する極めて本質的かつ重要な示唆に繋がっていると感じている)

 

マッキンゼーコマーシャリズムを極限まで排除した組織だと感じる。例えば、このエントリーシリーズの「その2:本質的な違い」で触れたように、マッキンゼーのお財布はグローバルだと「推測」されるが、これはあくまで私個人の推測である。なぜならば、そういったお金に関わる情報にはパートナー以上しか触れられず、それが徹底されているからだ(文字通り徹底である)。マッキンゼーの東京オフィスでEMとして働いていたが、私は東京オフィス全体の売上すらしらない。ましてや自分の単価(per diem)など知る由もない。それどころか「(プロジェクトを)売る」という表現すら使う事は許されていない。「売る」と表現する代わりに「clientにimpactをdeliverする」などと表現する。前述のWelcom dinnerの場で、そのことを全く知らなかった私はつい「プロジェクトを売る」という表現を使ってしまい、パートナー含めその場にいた人たちを凍り付かせてしまったのは、今となってはいい思い出だ。

 

上記のように、コマーシャリズムを徹底的に排除することは、東京オフィスを一つの独立した事業体と捉え、それ単体で数字責任を持たせていたら到底できないのではないか?少なくとも私が経営者(=パートナー)だったらできない気がする。オフィスの業績を任されれば、当然売上を気にするし、プロジェクトを「売りたい」と思うだろうし、コンサル事業を行う事業会社として大まかな業績は社員に共有したいと思ってしまうだろう。それが自然な気がする。

 

まさにそれをやっているのがBCGだ。繰り返しになるが、BCGはどこまで掘り下げてみても「コンサルティング事業をうまくやる事」に主眼があり、また思想としてローカルへのカスタマイズを大切にしているため、オフィスの独立性を重視している。BCGの東京オフィスのパートナーは、当然東京オフィスの数字責任を負わされているはずで、オフィスが単体で黒字にならなければ自分たちの首がしまるだろう。結果として、BCGは(マッキンゼーに比べれば)極めてコマーシャリズムの強い組織になっている。以前書いたように、新卒で入社したその日から、「君がクライアントに一日にチャージしてる額XX万円くらいだけど、今日それだけの付加価値だしてるの?」と詰められ、タクシーで小銭を払うのに時間がかかったら、「おせーんだよ。お前を待ってる間にどれだけクライアントにチャージしてると思ってんの?」と言われるわけである。定期開催のオフィスデイでは、当然のようにオフィス全体の業績に加え、クライアントごとにいくらのコミットメントを得ているかといったざっくりした内訳も全社員に公表されていた(東京でもボストンオフィスでも)。それが当たり前だと思っていたし、コンサルという事業を回している事業会社である以上、それ以外の環境があり得るなど想像もしなかった。ある時マッキンゼーからBCGに移ってきた人が、BCGを辞める際に「BCGはコマーシャリズムが強すぎる」と言った事があったが、当時の自分には何を言っているのかよくわからなかった(面白いことに、あとで聞くと、その人はマッキンゼーの中では最もコマーシャリズムが強かった人らしい)。

 

重要な事は、このコマーシャリズムへの意識の強さが、クライアントに提供するコンサルティングサービスの質そのものに非常に大きな影響を及ぼすことである。これはマッキンゼーだから、とかBCGだから、というわけではなく、一般的に成立する真実だ。「お金への意識」は人の行動に如実に、本人が理解している以上に大きくかつ無意識のレベルでも、影響を及ぼす。具体的に書けば、プロジェクトを「売ろう」と少しでも考えた時点で、コンサルタントは以下のような行動をとりがちになる(少なくとも「売る」という概念を全く意識から排除できている状態と比べれば、それら行動をとる確率は格段に高くなる):

  • クライアント企業にとって本質的に重要でない内容でも、何となくプロジェクト化する
  • プロジェクトをとにかくフェーズにきって(内容をある意味水増しし)継続的な契約をとりやすくする
  • クライアントのメンバーに気に入られるべく、彼らの意見を尊重しすぎる
                                    などなど

こういった行動を(無意識にでも)選択してしまう事は、本当に質の高いコンサルティングをクライアント企業に提供する上で、著しく大きな弊害となりえる。

 

マッキンゼーとBCGの両方に勤めて、コンサルティングを究極のサービス業に高め、そして真摯にクライアントに向き合うためには、コマーシャリズムを極力排除したほうがよいと体感をした(少なくとも自分の中ではそう結論づけられた)。マッキンゼーでは、EMはそもそもお金のことは全く把握していないので、それらを気にする必要はない。本当に純粋に「これはクライアント企業のためになるのか?自分達はclient impactを追求できているか」を考える事に集中できるし、そしてそれを常に絶対的な軸としてパートナーやジュニアメンバーと議論をできる環境にある(McK以外に勤めたことがない人間は気が付きすらしないかもしれないが、それはとても幸せな事だ)。仮に自分の売上を気に掛けるようなそぶりをパートナーがとれば、「client impact(彼らのワードで正確に書けば「put client interests ahead of the firm’s」というvalue)の観点からそれはどうなのか」と堂々と議論を仕掛けられるし、それがよしとされているのである。そうやって、どこまでもクライアント企業の事のみを喧々諤々と議論し、出てくる結果はたいていクライアントにとっては耳の痛い内容(だが、無視のできない、ある意味不都合な真実)になるのだ。だからマッキンゼーは劇薬になれるのだと思う。

 

驚嘆に値するのは、マッキンゼーがこういった組織を、10人規模ではなく2万人規模で、10億円規模ではなく1兆円規模で、実現している事である。こんな組織、ほかにあるだろうか?極めて稀有な組織だと考えざるを得ないし、少なくともコンサル業界においてはマッキンゼーだけなのではないか。BCGは確かにコンサル事業を回すのがうまく、(私が社会人になって以来、ここ10年ほど)MBBの中では常に一番高い成長率を達成してきたと思うが、しかしブランド力評価では一度たりともをマッキンゼーを抜かしたことはない。「The firm」と呼ばれるのはマッキンゼーだけであり、その「The」の理由はこういったところにあるのだと思う。

 

この観点、つまり、client impactにどこまでも忠実であり続ける事を組織のDNAに刻み込んでいるという点において、正直に言うとBCGは2流だと考えざるを得ない。このエントリーは、マッキンゼーとBCGを個人視点で比較する事が目的で、優劣をつけることはしたくないのだが、この点だけはマッキンゼーが圧倒的に優れていると感じている。「コンサル事業をとにかくうまくやる事」を目指したが故に、コンサルティングサービスの究極の質の実現が阻まれている、というのは実に皮肉なことに思えるし、逆にマッキンゼーがそのことも見越した上でそういった組織設計にしたのであれば、それは極めてinovativeで、すごいとしか言いようがない。

 

現在日々、SIerやITコンサル系の人と働く機会があるが、彼らは正直コマーシャリズムにまみれており、高い意識をもってコンサルサービスを提供しているとは言い難い場面をいくつも目にしている。マッキンゼーのその思想は、コンサル業界で働くもの全員に大切な教えを示しているように思う。

マッキンゼーとBCGは何が違うのか(その4-リーダーか傭兵か)

マッキンゼーはコンサルを生業としているにも関わらず、組織設計は「リーダーを育成する」という観点を頑なに貫ているように見える。一方で、BCGはコンサルを生業とし、組織設計も素直に「最強の傭兵を育成する事」に主眼を置いている

 

inspire verb
in·​spire | \ in-ˈspī(-ə)r \
inspired; inspiring

a: to influence, move, or guide by divine or supernatural inspiration
b: to exert an animating, enlivening, or exalting influence on
c: to spur on : IMPEL, MOTIVATE
d: AFFECT

 

Inspireという単語は、日本語にうまく訳せいないものの一つであるように感じるが(一般的には「鼓舞する」と訳すのだろう)、マッキンゼーの人間はこの単語が大好きである。グローバルのホームページにも多用されているし、世にあふれている「マッキンゼー流~」という本にも、「インスパイア」というカタカナで頻出することに気が付いている人もいるかもしれない(面白いことに、今Googleで"Mckinsey inspire"と検索した場合のヒット数は344万件であるが、"BCG inspire"では89万件程度である)。

 

実際にこの単語はマッキンゼーのジュニアの間で、まわり(特に自分よりテニュアが上の人間)を評するときに用いられる、ある意味社内用語だ。「吉村さん、今の発言uninspiringですよ」とか、「彼はinspiringですよね」といったやり取りが日々かわされる。

 

マッキンゼーに入社し、初めてこの言葉を聞いた時は、正直「inspiringってなんだよ」と思ったが、あたかも人を評する言葉が「inspiring」と「uninspiring」の2種類しかないかの如く、執拗にそれらの単語が用いられるので気になった。調べてみると、このinspireという単語と最もよく共起する言葉の一つがleader(やleadership)である事に気が付いた。

 

社員が使う言葉にはその組織の思想が現れる。その事がきっかけで、「マッキンゼーはコンサル業を“たまたま”やっているだけで、その本質はリーダーを育てることにあるのではないか」という仮説を持つようになり、あらためて組織を見渡してみると、すべての制度が実によくこの仮説に沿っていることに目を見張ったのである。

 

顕著にその思想が表れているのが、評価の考え方だ。マッキンゼーは、ホームページでも謳っているように「Extend your strength」、つまり、strength-baseで人を評価する事を大切にしている。「強みを伸ばす」というのは一般的にもよく聞かれる表現かもしれないが、マッキンゼーの思想を加味すると、以下のような言外の意味が含まれていると勝手に感じている:

  • 自らの強みに集中すべき
  • それは、弱みを普通レベルや得意レベルまで引き上げる事よりはるかに効率的だから、という事はもちろん、
  • もしあなたがリーダーになりたいのであれば、異なる強みを持ったメンバーをinspireして一緒に働く、彼らの能力を引き出す術を身につけなければいけない
    からだ

つまり、inspireできるようになる、というのはリーダーの条件であり、strength-basedの評価制度はリーダーとしてのその素養を磨くことも求めているのではないか。その思想がinspiring/uninspiringというジュニアが日常使う言葉のレベルで組織に刻み込まれている、それがマッキンゼーなのである。

 

「強みを伸ばす」というのは、特にコンサル業界の会社にとっては、言うは易く行うは難しだ。実際に、どこまで掘り下げてみても「コンサルティング事業をうまくやる事」に特化したBCGでは、全く逆のアプローチをとっている。すなわち「弱みをなくす」ことに主眼を置いた評価制度になっているのだ(もちろん彼らに尋ねても、“いや、それは違う”と否定すると思うが、実態はそうだ)。これは彼らの理屈からすれば極めて利にかなっている。コンサルとして、まずは「個として圧倒的に強くなる」事が重要であり、そのためには弱みもそれなりに克服すべき、という考えだ。私は5年近くBCGにいる中で、(端的に言えば)「コミュニケーション力を鍛えろ」というフィードバックしかもらったことがないといっても過言ではない。これは、論理的思考など、インテレクチュアルの部分の評価が自分は突出していたためで、相対的に弱かったのが常にコミュニケーション周りだったからだと思われる。新卒で入社直後に入ったプロジェクトの一番最初のフィードバックで、「吉村さんてさぁ、人間に興味ないよね。クライアントのジュニアメンバーとまずは飲みにいってこよう」と言われたのは今でも忘れられない、いい思い出だ。

 

BCGもホームページではパートナーの事を「リーダーシップチーム」と表現したりしているが、BCG社内で用いられるリーダーという言葉は、ごく表層的なもので、一般用語として用いられているに過ぎない。むしろ実態はオレンジ組織なわけで、ジュニアが用いる言葉は常に「軍隊発想」になりがちである。彼ら傭兵からすれば、自分よりテニュアの高い人間の評価は、究極「彼/彼女が率いる部隊の生存率」であって、結果として、周りを評する言葉は「彼は筋がいいので働きやすい」とか「彼は殺し屋だ」といった表現になるのである。「inspring」などといった高貴な表現など、頭の片隅にも出てこないし、そういった考えがあり得る事すら、私はマッキンゼーに入社するまで気が付くことがなかった。

 

こういった観点からもマッキンゼーとBCGは大きく異なる。どちらがよいというものでもないし、人によって当然合う合わないがはっきりすると思うが、同じ業界の会社でここまでアプローチが顕著に違うというのは考えさせられるものがある。

マッキンゼーとBCGは何が違うのか(その3-性善説か性悪説か)

マッキンゼー性善説に基づいて、BCGは性悪説に基づいて運営されている。どちらも一長一短あれど、それぞれの組織戦略に沿って最適化された結果であるが、性悪説で育った人間から見ると、マッキンゼーには衝撃的な風景が広がっているのである

 

以前のエントリーで、マッキンゼーとBCGでは組織の進化のレベルに差があり、またお財布の場所も違いを生み出すドライバーになっていると考察した。特に、組織の「Why」の定義が、マッキンゼーとBCGで異なり、マッキンゼーは本質的には「グローバルリーダーを育てる事」を意識している一方で、BCGはどこまで行っても「コンサル事業をうまく行う事」に主眼がある。この見方には色々賛否両論があるかもしれないが、少なくともこう考えると、自分が体験した、なぜマッキンゼーはBCGとこんなにも違うように感じられるのか、を全てうまく説明できるのである。以降のエントリーでは、なぜそのような見方に至ったのか、言い換えれば、それらが現実的にはどのような違いになって表れているのかを、具体例をもって解説してみたい。

 

まずは些細なエピソードから。これはマッキンゼーに入社して、まさにDay1に自らに起こった小さな出来事である。

 

入社当日、色々なOn boardingプロセスをこなす中で、早速自分のパソコンとスマホを受け取り、その日の夜にWelcome Dinnerが催されることを把握した。

 

BCGで5年近く、傭兵として育てられ、プロフェッショナルファームにまた戻ってきた自分は、忘れかけていたプロフェッショナリズムを思い起こしつつ、「これは最初の地雷だ」と察する。

 

ポイントは、下記2点:

  • PCをすでに受け取って、自分が管理責任を負っている事
  • Welcome Dinnerでは恐らくお酒がふるまわれると想像される事

 

プロフェッショナルファームでなくても同じかと思うが、会社のPCをなくすことは致命的であり、それは自分のクビに直結する。ましてやお酒に酔ってなくした、などとなれば弁明の余地も何もなく、プロフェッショナル失格である。なので、こういった場面でのリスク管理が地味に重要になるのだ。

 

これは対策を練らねばと、フェムト秒で思考を回した結果、自分の選択肢は大まかに3つあるとの結論に:

  1. 何も考えず、PCをもってディナーに参加し、お酒を飲む
  2. PCをもってディナーに参加するが、お酒を飲まないようにする
  3. PCを会社において、ディナーに参加し、必要ならそのあと戻ってピックアップする

 

まず(1)は、「自分は酔わない」という自信をよりどころとしており、最もリスキーなので却下。(2)はなくはないが、外様の自分はお酒の力を借りて少しでもまわりの人に溶け込みたいので、望ましくない。

 

BCG的考え方ではこれは間違いなく(3)だなと考え、社内に割り当てられたロッカーを見に行ったら、なんと「鍵が付いていない」のである。繰り返す、「鍵が付いて・い・な・い」のだ。

 

これはBCGの感覚から言うと衝撃的な事だった。BCGではDay1に自己責任の概念を教わり、「たとえ(万が一)会社があなたに不利な事をしても自己責任と捉えよ」と叩き込まれるのである。会社の中でも油断はできず、パソコンを長時間自分の手元から離すことは想像したこともなく、当然ロッカーには(ちゃんとかけているかどうかは別として)鍵があった(東京でもボストンでも、である)。

 

軽いパニックを覚えつつ、どうしようかなと考えた挙句、まあ選択肢は(2)しかないかと思い、PCをもってDinnerに参加し、グラスにワインを注いでもらったがほぼ飲まないという形で、食事と談笑を楽しんだのであった。

 

このエピソードを後日、マッキンゼーで同じチームになった同僚に話したところ、大笑いされた。

曰く

「いや、せっかくのDinnerで、そんな酔いつぶれるほど飲むこともないわけだから、普通に楽しめばいいじゃん」

いやいや、でもPCなくすの怖いから、というと、

「そんなに心配なら、じゃあ会社のロッカーとか、その辺の(フリーアドレスの)デスクにおいておけばよかったのに、、、」

いやいや、でもPCを社内の人にとられても自己責任になるじゃないか、というと

「笑、社内の人間がそんな悪い事するわけないじゃん。仮にされたとしたら、それはしたその人間の責任。君の責任じゃないよ」

とあっけらかんと言われたのである。

 

「社内の人間がそんな悪いことをするわけない」、という、まさにこのやり取り自体が衝撃的なわけである。それでも、その時プロフェッショナルとして最大限配慮した対応をしたはずだと思っていた自分は、その後しばらくの間この対話の意味すら十分理解できなかったが、つぶさに組織を見渡すと、そもそもマッキンゼーとBCGで組織運営のされ方が根本的に異なる事に気が付いた。これが「組織の進化のレベルが異なる」という考察につながっている。

 

すなわち、マッキンゼーはあくまでValuesと呼ばれる価値・行動規範ベースで運営されている組織であり、そこにいる人たちは同じValuesを共有している「仲間」であり、ライバルや敵といった存在ではないのである。一度入社してきたものは、そのValuesを十分理解しているという大前提のもと、仲間として信頼されるのである。いや、信頼することにしているのである。その信頼を裏切らまいと、努力をして徐々に溶け込んでいくといった感覚なのかもしれない。「マッキンゼー・マフィア」などとたまに揶揄されるが、マフィア並みにファミリーに近いつながりを組織に感じられるのは、マッキンゼーならではなのだ。

 

これは文字にすると些細なことに様に感じられるかもしれないが、オレンジ組織であるBCGとは全く異なっている。BCGでは社内でも同期は仲間ではあるがライバルでもあり、どこか常にCompetitorとして意識させられる。BCGから来た人間からすると、すべてが別世界に感じられるわけである。オレンジとグリーンで組織はこんなにも異なるのか、とこれ自体、非常に貴重な経験をしたと思う。

 

誤解のないよう明記をしておくと、マッキンゼーの組織運営の方が素晴らしいという事を言いたいわけではない。Valuesに基づく運営はリスクもある。例えばValuesを理解していると信頼した仲間に、仮に悪意をもった人間が混じってしまった場合、大きなスキャンダルに繋がりうる。(しかしその自浄作用は外部の人間が想像するよりはるかに強力で早い)

 

またBCGの組織運営を非難したいわけでもない。先に書いたように、「コンサル事業をひたすらうまくやることに特化したコンサル企業(=BCG)」としては、オレンジ組織の方が社員が切磋琢磨して、ラストマンシップをもった傭兵を育てやすいのだ。

 

ただ、「違う」、著しく見える風景が違うのだ、という事を伝えたい。私個人はマッキンゼーの空気の方がはるかにあっており、ものすごくその思想にしっくり馴染めたが、最初は本当に衝撃的だった。「なぜコンサルファームなのに社内にこんな空気がながれているんだ」、「これはなんなんだ」と理解不能だったが、理解でき始めるとすべてがしっくりきた。なるほど!と感嘆してしまう、そんな瞬間があったのだ。

DXに関する雑感(第2回):DXに成功したけりゃ4つの事を抑えようね、という話

昨日のエントリーで、DXとは本質的には「社内にデジタル文化を醸成する事」だと書いた。現状がどんなに非効率だろうが、今この瞬間はデジタル技術を一切使っていなかろうが、関係なく、会社の文化が変わればDXは自然と進んでいくのである。つまり、「使えるところにデジタル技術使っていくのは当たり前でしょ」という事に何の疑念もいだかず、個人の生活においてもごく当たり前にそれを実践している人たちが会社を構成すれば、既存の業務の非効率に対して、「これってこのSaaS導入したらいいんじゃね」となるわけで、生産性は必然的に上がっていく。そういった人たちで構成されているであろうメルカリは、だからこそ「DXの余地はない」と勝手に思われるわけであり、実際に社内にデジタル技術を取り込む力は日本の伝統的企業よりはるかに高いだろう。

 

上記のようにDXを理解すると、DXを成功に導くために抑えておくべき点が4つある事に気が付く。

 

1. 社長がコミットする事

DX成功のためには、CTOでもCIOでもCDOでもなく、代表取締役社長がコミットする事が必須である。

 

会社の文化というものは、その会社の規模に関わらず、社長で決まる、と考えている。逆に言えば、会社の文化を変えられるのは、社長だけ、なのである。社長が変わると、例えそれが1兆円規模の企業であろうと、驚くほど会社が変わる事があるのはこのためである(よく例えに出されるのは、少々古いが、2010年に破綻したJALの再建だろう)

 

全社レベルのDXとなれば、複数の部門にまたがってオペレーションを変えたりする必要も出てくるだろうし、現実的に社長のリーダーシップなしにはDXは進まない。

 

2.長期にコミットする事

 文化を変えるという事は非常に時間がかかる事であり、長期間のコミットメント、というものが必須となる。実際にシステムの導入に年単位の時間がかかる事はざらにあり、「効果が見えるまでには時間がかかるけど、もう腹をくくってやり続ける」という覚悟が必要になる。

 

最近よくある話が、「スモールにまずPoCをやって、うまくいったら導入しましょう」というものだが、正直PoCがしょぼい結果になって、途中で頓挫している事例が大半だ。傍から見ると「PoCって言葉を使いたかっただけだよね」と思えるほどである。PoCが悪いというわけではないが、そもそも「ConceptをProofしなくてもいい、確実に成果がでそうな取り組みはやりきったのか」、「どの取り組みはPoCが必要で、失敗するリスクはどの程度か」など、DXの取組の全体マップをしっかり描いて、できるところからやりきる、時間がかかってもやり通す、という覚悟をもって進めているDXにはなかなか出会わない。

 

3.内製化する事

DXが進まない企業ほど、外部のベンダー依存が激しい。しかし、DXとは文化を醸成する事であり、成功の本質は「内製化」にある。最終的には自前で出来るようにならなければならない。もちろん、一時的に外部ベンダーの力を借りることも必要だろうし、全行程を内製化する必要はないが、変革の主要な部分は自前で出来る、というのが理想的である。

 

そのことを理解しておらず、「よくわからないから丸投げしよう」という企業はいつまでも変わる事ができず、そしていつまでも莫大なシステム開発・管理費を払う事になり、ベンダーのカモになるだけなのである。

 

4.人員整理を断行する事

DXとは生産性をあげる取り組みである。業務の生産性が上がれば、必然的にある業務にかかる人員数は少なくて済むようになり、人が余る。こういった余剰人員をリストラする事、この覚悟がなければDXの効果を享受できない。これは厳しい意見のように聞こえるが、言われてみれば至極当たり前の事ではないだろうか。

 

日本企業でよくある話が以下のようなものだ:

山田さんと鈴木さんがいます。

山田さんは業務AとBを、鈴木さんは業務AとCを行っています。

新たなシステムを導入し、業務Aは完全に自動化されたので、山田さん・鈴木さんの工数がそれぞれ50%空きました。

部長は空いた50%の工数で、「より売上につながる作業をしよう」と号令をかけました

 

いやいや、本来は、山田さんか鈴木さんに業務を寄せて、どちらかを解雇する事が正しい。生産性がそれだけ向上し、業務が効率化したのだから。(日本では解雇規制もあり、現実的に解雇が難しいのは理解した上で)上記のような状況で、システム導入のROIを計算すると、「結局人も減ってないし、実際にコスト削減になってない」結果になるわけだが、大企業はその事実に目をつむって巨額のシステム投資を続けている実態がある。

 

また、デジタルの文化を醸成していく過程で、抵抗勢力というものが必ず現れる。「自分は逃げ切りたいから余計な取り組みはしたくない病におかされた部長」とか、「興味のあるふりをしてやたら検討に時間をかけてできない理由だけ探す課長」とか、そういった人間である。そういった人材も、最終的にDXが仕上がった後の組織には必要ないから、タイミングを見て本来リストラすべきであり、そういった事を繰り返して文化が変わっていくのである。

 

 

こうして4つ並べてみると、日本がデジタル後進国である理由がわかる気がする。

社長が高齢の場合が多く、デジタルリテラシーも低いため社長自らがDXの抵抗勢力となっており、任期も短いので「事なかれ主義」で終えたいという意識が強く、エンジニアという人種の評価が低いが故に高い年収を払って雇う意味も分からないから外注に頼りまくるうちにSIerという価値を生んでない業界がうまれ、雇用の柔軟さがゼロの法制度のお陰で正社員がガチガチに守られ、生産性があがって仕事がなくなろうがクビにできない。それが日本である。

 

こんな国でDXが進むわけねーじゃん、という絶望感しか生まれないわけで、コロナ禍であるにも関わらず通勤電車に平気でのって、「上司が機械音痴だし、なんか不安だから」という理由でリモートワークも切り上げてオフィスに行く国民をみて、その「DXが進まない」という考えは確信に変わるわけである。

 

さて、そんな国、日本で、DXをひたすら叫んでいるコンサル各社、特に戦略系のコンサル各社は正気なんだろうか?彼らの取組は成功するのだろうか?逆に、成功するとすればどのような道筋があるのかだろうか。

 

次回、気が向いたら、そこについて簡単に書いてみたい。

 

DXに関する雑感(第1回):DXって「会社の文化を変える」という事ですよ、という話

自宅の周りの道を7キロほど散歩するのが日課になっているのだが、歩きながら考えた事で久々に軽く自分のために整理しておきたい、と思った事が出てきたのでエントリーに残しておく。

 

デジタルトランスフォーメーション(以下DX)に関する雑感なのだが、第1回目は「DXとは、極論、会社の文化を変える事なんですよ」というお話。

 

以下、やや長いどうでもいい前置きーーー

まずDXの定義について、色々複雑な解釈はさておき、とりあえず自分は以下のように単純な理解をしている:

色々なデジタル技術(①)を使って、事業のやり方を変える事(②)

 

上記定義には、①と②とふったように、重要な要素が2つある。

 

まず①の部分、すなわち、DXの「D」に相当する部分であるが、ここでいうデジタルとは幅広いデジタル技術全般を指しているものと考えている。情報をデジタル化してコンピューターネットワーク上でやり取りをする、いわゆる「IT技術」のみならず、「ドローンを使って輸送を自動化する」とか、「ロボットを導入してピッキング作業を自動化する」とか、「椅子にセンサーを取り付けて社員の健康を管理する」といったソリューションも実務的にはDXの中に含まれているので、そういったIoTやらドローンやらAIやら、なんかしら機械化に関わる技術(ITの周りを彩る技術とでも言うべきか)をまるっと総称する言葉として「デジタル」が用いられているのだろう。

 

そして②の部分、すなわち、DXの「X」に相当する部分であるが、ここでいうトランスフォーメーションとは、先ほどは「事業のやり方を変える事」と抽象的に書いたものの、より具体的に書けば(少なくとも実務上は)2つしかなく、一つは「コストを削減する事」、もう一つは「売り上げをあげる事」である。つまり、デジタル技術を用いてコストを削減するか、売上を上げる事がDXなのである。

 

トランスフォーム(一変する、変革する)という強い表現が用いられているのは、デジタル技術の進化・深化により、本気でデジタル技術を用いてコストを削減、又は売上を上げる施策を打ちに行くと、劇的にこれまでのやり方から変わる、それこそビジネスモデル自体が根底から変わってしまう事が起こりえるからだと理解している。ただ現実的には、大して重要でもない業務システムを一つ入れるのも「DXだ」と言われたりすることがあるので、本当にトランスフォーメーションになるかどうかは、どの程度真剣に取り組むか、に依存する。

 

前述は、自分の勝手な解釈なわけだが、「デジタルトランスフォーメーション」という言葉は、もともと2004年にスウェーデンのとある大学の教授が提唱した概念の様である。その大元の文献に当たると、

The digital transformation can be understood as the changes that the digital technology causes or infuluences in all aspects of human life

とあり、当初は人間生活全般にデジタル技術が与える影響を表す言葉として用いられていたようであるが、いつの間にかそれが商業的に用いられるようになったのだろう。

 

 

ここからが本論ーーー

さて、より重要な事は、商業的な意味でのDXについて、世の中には不思議と「明らかにDXが必要でないと勝手に思われている会社」というものが存在するという事である。その会社をつぶさに見た時に、実際に必要ないかどうかとは全く関係なく、である。

 

その代表がGoogleやメルカリだろう。

 

あなたがDXサービスを提供するコンサルタントだったとして、営業の対象とするアタックリストを作っていたとしよう。そこに、Googleやメルカリを入れようとするだろうか?入れるなどと考えもしないのでないか。

 

それはなぜだろうか?

 

彼らがそもそもデジタルを基盤にしたビジネスを展開しているからだろうか?でも考えてみればメルカリだって、ビジネスはアプリ上で展開しているにせよ、実際に多くの社員がおり、総務や採用担当といったバックオフィスの人々が働いている。蓋を開けてみれば、実は社員は経費を物理的な紙を介して毎月経理担当に渡して請求しているのかもしれないし、採用も履歴書を紙で管理してファイルに閉じたりしているのかもしれない。そういった部分はDXの対象として、新たにSaaSの導入検討をする余地があるかもしれないのに、「メルカリにも一応DX、売り込んでみるか」とは決してならないわけである。

 

「なぜ(DXが本当に必要かどうかは別として)DXの対象からは明らかに外れる企業が存在するのか?」という問いが結構本質的に重要なのではないか、と感じている。

 

それは極論DXとは「企業文化・風土に依存するもの」だからなのではないか。

 

メルカリの人たちは、デジタルマインドやケイパビリティーがあるから、「きっと紙で経費精算している事を非効率だとおもって勝手に適当なSaaSを導入して効率化しているに違いない」と思われているわけである。実態がどうであれ。

 

つまり、DXとは社員のデジタルリテラシーやケイパビリティーが高く、「デジタルを極力使えるところは使うなんて当たり前やん」という思想が当たり前にある会社には必要ないわけだ。

 

逆に言えば、そういった状態を達成する事がDXのゴールなのだと考えられる。

 

DXとは社内にデジタル文化を醸成する事なんですよ、という理解で考えると、DXを進めるために必要な要件、というのがはっきりしてくる。次回はそのことについて書いてみたい。

 

 

 

 

 

 

 

コンサルティングにPh.D.は必要か

Ph.D.繋がりで、エントリーしておこう。

 

コンサルティングPh.D.が必要か、という問いに一言で答えるのであれば、「必要ない」という事になろう。

 

ただし、これには色々と注釈をつける必要がある。

 

まず、この文面において、コンサルティングとは戦略コンサル(MBBなど)の現場を指しており、一般的なコンサルトラックの人材をイメージしている。また、「必要か」というのは、「クライアントにPh.D.を持っている事を明示的に求められる場面があるか」という事である。

 

コンサルティングと一口に言っても色々あり、また戦略コンサルだけを見ても、担う領域が拡大し続けている。例えば技術コンサル(≒この技術は有望かどうか、補完する技術は何か、プレーヤーは、といった議論を深める)を行う場合、当然その技術にかなり詳しい人間が入る必要があり、そういった人は往々にしてPh.D.を持っている事が多い。しかしながら、(少なくとも)戦略コンサルがそこまで詳細な技術コンサルができるかというと、実際にはできないし、またする事自体をクライアントから期待もされていない。技術に関してはクライアントサイドにいる研究者やエンジニアの方がよっぽど詳しく、また、ファーム内に当該技術の専門知識を持った人間はいるかもしれないが、第1線から外れた段階でその知識は陳腐化し、第1線のクライアントにとって見たら使い物にならない知識である(知識の陳腐化はデジタルでも同じで、以前書いたエントリーでも、Googleから人雇っても使い物にならんと触れたことがある)。前述の技術コンサル的に関わる人物は、大学で研究をしている教授がアドバイザー的にその企業に関わっている、といったケースが多いように思う。

 

ではPh.D.が全く役に立たないかと言うと、自分の経験から一つだけ「間接的に役に立つ」領域がある。ヘルスケアのR&D部門である。直接的にPh.D.の知識が役に立つわけでは必ずしもないが、持っている事で仕事がしやすくなる、のは確かだと言える(あくまで間接的であって、まああってもなくてもいいが、あったほうが馴染みやすい、程度の話)。

 

そもそもヘルスケア(ここでは製薬企業やメドテックをイメージしている)は2つの点においてかなり特殊である:

  1. 原則規制産業である:例えば日本において、製薬企業は自分で医療用医薬品の値段を決める事すらできない。当然自由にパブリックな宣伝をすることもできないし、様々な法律・規則に従って事業を展開する必要がある。面倒なのは、その規制が国ごとに違うという点である。商品自体はざっくり全人類に適用可能なので、必然的にグローバルな展開が必要になるのだが、展開しようとすると国ごとの規制を熟知しなければいけない、という事になるのである。
  2. R&D比率が異常に高い:基本的に医薬品や医療用器具は、技術の塊である。医薬品など、化合物特許が取得された化合物がそのままむき出しで商品になっているようなもので、新しいものを作ろうとすると莫大なR&D費用がかかる。伝統的な研究開発型の製薬企業ではR&D費が対売上高で平気で二けた(10%以上)になる。もちろん製薬業界も「変革期」であり、自社開発でなくオープンイノベーションで、新しいものを自社開発するのではなくM&Aで、といった流れがどんどん強まってはいるだろうから、会社の構造自体も大きく変わっていくのかもしれないが、、、。

 

こういった特殊性の高い業界なので、業界の中にいる人も専門性が高くなり(悪く言えばタコツボ化し)、「他の業界と比較しよう」という意識にはなりにくい。製薬企業のクライアントに、「他業界の事例ですが、、、」と何かをもっていっても全く刺さらないのはそのためであり、必ずその業界内での比較分析という事になる。

 

そして必然的にR&D部門の重要性が高く、その生産性改善うんぬんといったテーマが常に社内に転がっており、そこにコンサルが入る事がある(しかしR&D部門の生産性に関わるテーマは、極論「人をどうやってイノベーティブにするか」みたいな問に帰着し、コンサル雇って解決するなら苦労しないので、あまり賢いコンサルの使い方ではない、、、)。

 

そういったプロジェクトの場合、そのコンサルタントはR&D部門の人々と働くことになるが、彼らはたいていPh.D.を持っているので、Ph.D.を持った人に囲まれる、という事になる。こういったケースでは自身もPh.D.を持っていると格段に馴染みやすくなることは間違いない。専門用語が(勉強しなくても)大体理解できる、という利点はもちろん、Ph.D.を持っていると単純に「仲間とみなされやすい」という事が起こる。鹿児島出身の人が東京に出てきて、鹿児島出身の人に会うと「おー」ってなるのと同じ感覚であり、Ph.D.を持った研究者はMBAを持っているコンサルより、Ph.D.を持っているコンサルの方が話しやすいのだ。

 

こういった事情も影響し、かつヘルスケアが一大産業&高利益率が故にコンサルヘビーユーザーという事もあり、ファーム内でPh.D.を持った人はヘルスケア村に圧倒的に多い気がする。まあそういった人たちが、ヘルスケアの仕事だけをしていて幸せか、というのはまた別の観点であり、また別のエントリーで機会があれば書いてみたい

 

Ph.D.は取得してよかったか

一度、自分が取得したPh.D.(博士号)について書いておきたいとふと思い、パソコンの画面に向かっている。

 

Ph.D.はよく、「足の裏の米粒だ」と揶揄される。つまり、取らないと気になるがとっても大したことないというのだ。これは本当にその通りだと思う。

 

例えば自分は発生遺伝学の分野でPh.D.を取得したが、今その分野とは全く関係のない仕事をしているし、そこで身に着けた知識も直接的には何にも活かせていない。それどころか、Ph.D.を持っていて得をした経験が殆ど思い浮かばない。

 

むしろビジネスの世界に生きるのであれば、一部の例外的環境を除きPh.D.は必要ないだろうし、自分が仮にビジネスの世界で生活をすることを学部生時代に知っていたら、むしろ自分はコンサル会社に就職して2~3年働いたのちに、MBA等の代わりにPh.D.を取っていただろう(ビジネス世界で生きる事が確かでない人でも、そういったパスをお勧めする)。

 

Ph.D.というものは、所詮自己満足の世界なのだと理解している。(少なくとも)生物学の世界で研究者になろうという人は、Ph.D.を取得していないと一人前とみなされないと思うし、どこか「免許」のような存在ではあるのかもしれないが、自分が直接面識のある人の中にもM.D.(医師免許)だけでノーベル生理学・医学賞を取った研究者がいるので、研究をやるにしても別に必要ないといえば必要ない(研究者になる過程で自然に取れるもの、である)。

 

しかしながら、「じゃあ取らなくてよかったか」と言われると、自己満足の観点から「明らかに取ってよかったと思っている」し、また生まれ変わっても必ず何らかの分野でPh.D.を目指していると、そこは確信をしている。では何がそんなによかったのか、いくつか書いてみたい。

 

1. 色々な人との出会いが良かった

アカデミックの研究者になるには、本当にその分野が好きでないといけない。

 

もちろん大して好きでもないのに何となく惰性でポスドクまで行ってしまう人もいるが、アメリカの大学で(日本の大学はまた別の環境かもしれないが、、、)研究室を持つところまで行く道のりはかなり険しく、研究を続けたいという強い興味・意志のない人間が、その道を選ぶ理由が見当たらない。

 

ロックフェラー大学にて、自分が在籍していた期間で、一度だけ研究室を一つ増やす機会があったのだが、公募をしたところ、応募者は確か世界中から1500名以上だった、と聞いた記憶がある。倍率1500倍の超難関というわけだ。一流とされる大学でポジションを持つにはそれだけ狭き門であり、ある意味BCGやマッキンゼーに入社する方がよっぽど簡単だと考えられる。しかも、そうやって苦労してポジションを得ても、研究費が与えられるわけではなく、大学から「研究室という場所を有料で借りる権利」を得るだけなので、研究費はまたグラントを配布している各機関を説得して獲得するというプロセスがある。そうして研究を続けても、成果がでなければ、あるいは成果が出ても大学の中での政治的立ち振る舞いに失敗すれば、テニュアが取れず、40前後にしていきなり無職として世間に放り出される。考えてみればリアルにブラックというか、冷酷なキャリアパスとも考えられる。

 

それでも研究したい、という思いをもって続けている人は、やはり話を聞くと魅力的なのである。「何かを熱っぽく語る人」に対しては自然と耳を向けてしまうと思うが、そういう人達にたくさん出会えるのがアカデミック研究の現場だ。

 

中でも、優秀とされる人は、本当に優秀だった。それこそ、生物という複雑系を、想像力をフルに働かせながら理解していく、自分の中にその世界を描いていく知性に驚かされ、同時に羨ましかった。考えてみれば、生物のミクロの世界を人間が自分の目で直接見る事は決してできない(もちろん顕微鏡を使ったり、蛍光タンパクを使ったりすれば可視化はできるが、それは直接的ではないし、可視化した時点で自然の状態とは大きく乖離しているというジレンマがある)わけだが、その見えないものを見ようとしている姿は、ある意味狂気に満ちているというか、頭がある程度おかしくないとできない事かもしれない。以前、知性に関するエントリーを書いたが、それはこのころであった人たちの影響が非常に大きい。

 

特に自分が師事したShai Shahamとの出会いは大きかった。線虫などそれまで微塵も興味がなかったが、彼が話す姿を見て、「この人に学ばなければここにいる意味がない」と直感し、研究室のローテーションも全くせずに最初から彼の研究室にお世話になった事は、人生で下した決断の中でも数少ない絶対的な正解だったと思う。

 

 未だに、「こういう状況で、Shaiならどう考えるだろうか」と思えるような人に大学院時代に出会えたことは非常に幸運な事だったと思う。

 

2. 「On top of the world」の感覚を味わえた

当たり前のことだが、いや、あまり当たり前と思われていないかもしれないが、人間が知らない事の方が世の中はるかに多い。

 

例えば我々は地球上に生息している生物の数すら正確に把握できていない。人間が記録した生物種はたかだか200万程度で、地球上には実際には1000万種類くらいはいるのではないかと推測されている。森林が消失したり、気候が変動する事で、種そのものが人間が知らない間に消えてなくなっていくので、正確な数字を把握する事は一生できない。「生物が何種類いるか」、そんな基本的と思われる質問にも人は答えられないのである。

 

その中で、研究者になるという事は、まず分かっている事(=研究してはいけない事)を教科書や論文等の文献を通じて理解し、分かっていない事の中から自分の興味のある事柄を選択し、研究するとう事である。つまり、そこで何かを発見すると、必然的に「人類の歴史の中で自分が初めて目にする」ことになる。その結果が重要なものであればあるほど、個人として興奮するし、また「人類の頂点に一瞬立ったかのような(英語ではOn top of the worldと表現されるようだ)」不思議な感覚に襲われるのである。

 

もちろん研究者全員がその感覚を味わえるわけではないのだが、幸運にも自分は大学院時代の研究を通じて、その感覚を味わう事が出来た(ほんの一瞬だったし、よくよく考えれば幻だった気がするが、、、笑)。毎日夜中3時~4時まで顕微鏡の前に座って線虫の細胞をablationし、初めてconfocalで映し出された結果を見た時のあの興奮は、一生忘れることがないだろう。

 

結局は、その後特定した鍵となる遺伝子にフェノタイプを見つける事が出来なかった事もあり、大した論文にはならなかったが、検索すると自分の仕事がいつでも出てくるというのは悪い気分ではない。人類のサイエンスの歴史の中で、自分の論文など、誰も気に留める事もなければ、それが無かったとしても人々の生活には全く影響がないわけだが、「真実(=自分が間違いなく確かだと信じられる)を記した記録を残した」という自負はあり、そうしたものの積み重ねが、マクロでみると人類の進歩に繋がっているのだろうと思う。

 

真実は何なのか、を追求し、そして何かを後世に残すことができた(=100年後に検索しても出てくるものを残した)という点において、自分の中では非常に満足感がある。

 

3. 学びの場として有意義だった

これは前述1の誰と出会うか、によるところも大きく、が故に今一度3点目として書く事はやや冗長な感じがあるのだが、Ph.D.コースは学びの場として普通に有意義だった。アメリカの大学院だったからという事はあるのかもしれないが、その後の人生や社会生活に向き合う姿勢の多くが大学院時代に養われたものだと感じている。

 

例えば、自分と話した人は、どうも私の中に「芯がある」様に感じるらしい。聞いてみると、それは相手が誰であろうと物おじしない・譲らない部分がある、本質を理解しようとする、といった姿勢から滲み出るようであるが、それらは研究者からしてみると当たり前の事で、ある程度共通している性格かと思う。真実を追求する研究者は、相手がどんなに偉くても、ファクトは捻じ曲げられない、ファクトを突き付けて議論する、といのが当たり前であり、研究室の中でそういった教育を受け続けると、必然的に前述のような姿勢になるのだろう。

 

ジェフ・ベソスの「意見で決めるなら、私の意見が常に勝つ。しかし、データは意見に勝つ。だからデータを持ってこい」という言葉を引用し、こうありたいと言っている人をたまに見かけるが、「そんなものは研究者世界では当たり前だ」という話であり、そういった姿勢・考え方が自然に骨身にしみていくのがPh.D.の教育なのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

いわゆる「頭がいい」人ほど認知が歪む

最近、自粛生活で家にいる時間が極めて長いせいか、色々な思考実験をするのが趣味のようになっている。

 

その中で、あらためて気づかされる事は、一般的な教育がいかに人の頭を腐らせるか、という事である。「頭が腐る」という事をより具体的に書き下せば、「認知の仕方が画一的になる」という事で、既存の教育を受ける事は、ある事象を見た時にある側面からのみとらえる事を繰り返し練習する強化学習のようなものであり、結果として創造性が失われる。

 

以前「コンサルをやっていると頭が腐る感」というエントリーを書いたが、これもまた戦略コンサルという企業における教育(それは既存の高等教育の延長線上にあり、同一の部類のものである事は間違いないが、、、)の弊害であり、さらに認知をゆがめることにつながる。

 

無論、自分もこれらの教育を受けてきた最たる人間で、頭が腐りきっている。そのことを憂い、自粛生活の中で、少しでも腐った頭をもとに戻すのに良さそうな事を生活に取り入れているわけだが、まあ腐ったものは腐ったもので、元には戻らないわけである。

 

今日は、そういった頭が腐った、いわゆる「頭がいい人(≒現行の教育システムの中で優秀な成績を収めた人)」とされる人々の大半が(恐らく)正しく答えられない問題を出してみよう。私のブログの読者の中には現役の戦略コンサルの方も多くいると思うが、有名大学を出てトップファームで毎日頭を死ぬほど鍛えている彼らでも、恐らく90%以上の人は正しく答えられないと想像する(違っていたら申し訳ない、、、)。認知がいかに歪んでいるのか、という事を考えるきっかけになれば幸いである。

 

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以下の問いを考えてみてください(答えは少し下に書いておく):

下の、A、Bのグラフは、ある一定期間の商品の価格推移を示しています。

この期間、商品の価格が上がりやすかったのは、A、Bのどちらですか?

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いかがだろうか?

 

わざわざこんなシンプルな問題を出すからには、何か裏があると思って、今回は正しい答えにたどり着く人も想像しているよりは多いのかもしれない。問題文というのはそれだけで認知をゆがめてしまうものであり、作り方が極めて難しい。戦略コンサルでアンケート作成をしたことがある人はその苦労を知っているはずだ。

 

正解は一見するとBのように見える。「実際に価格が上がっているのだから、Bの価格が上がりやすかったに決まっているではないか」という事だろう。ごもっともである。Aの方の価格はレンジになっていて、一定の幅に収まっているように見えるが、確かにBは上昇トレンドにあるように見える。

 

でも正解は、実はA、B共にランダム生成された価格推移である。つまり、価格が次に上に行くか、下に行くかは毎回乱数によって50%の確率で決定されたのである。

 

上に行くか、下に行くか、50%の確率で決められたのだが、Bのようになることもある。それを瞬時に想像できただろうか?こういった問題形式ではなく、AとBの価格推移を何らかの違うコンテキストで見せられた時に、「ああそれランダムじゃないですか」という発想ができるだろうか?むしろ、頭のいい人はなんらかの理由を考え始めるのではないだろうか。ランダムに決まったことに対して、である。

 

こう考えると、結局世の中で起こっている事の大半は後から意味付けがされているだけで、この「後から意味をつける」、そうしなければ気持ち悪い、という事自体現在の教育システムが産みだした人間の特性の一つかもしれない、と思ったりするわけである。

 

 

 

 

 

素材放置:S&P 500 Indexes by GICS

コロナの影響を市場はどうとらえているのか、どの業界に影響が大きくて、どの業界は比較的速やかに回復しそうなのか、何となく肌感を持っておきたく、GICSの大分類ごとにS&P 500を切って、横並びで比較してみた(2020年1月2日を100としてある)

 

せっかく作ったので、考察は特に書かないが、ブログのエントリーとして図を貼り付けて残しておく。

 

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成功する人は「今」起業する

人生40歳に近づいてくると、実際には見えていないのに「大分先が見えてきた」と錯覚し始め、自分の思考や行動のすべてが「緩やかに死の準備をしている」ように感じられ、加えてコロナで世の中自粛ムードで、輪にかけて気分が落ち込む自分を感じながら、「これがmidlife crisisか」と実感する日々である。

 

midlifeになったなと感じる場面の一つが、他人からのキャリア相談だ。

 

率直に書こう。自分にキャリア相談をしてくる人間は馬鹿だと思う。毎度ブログでも書いているが、人生には答えがなく、自分が正解だと思った道が正解になるので、そもそもキャリアは人に相談するものではないと考える(むろん、自分の頭で判断するための情報を収集する目的なら理解できる)。また、大したキャリアを築いていない自分に相談してくるという時点で相当筋が悪い。頭がどうかしているとしか思えない。

 

人生をシンプルにするために、「お酒を飲まない(飲めないではなく、もう飲まない)」などいくつかの明確なルールを設定しているが、そこに「キャリア相談は受けない」事を追加した矢先、ある知人から声をかけられた。

 

その人は相当優秀で(少なくともかなりロジカルである事は間違いない)、自分なんかにキャリアを相談してもしょうがない事を十分理解しており、それでも一言クイックに感覚を確認したいが故に声をかけてきたようだ。曰く:

会社辞めて起業しようかと思ってるのですが、どう思いますか?吉村さん、独特の感覚もってそうだったから、笑

 

彼がどんなアイデアで起業するかも聞くことなく、自分は短く以下のように答えた:

さすが、最高のタイミングを選びますね。100年に一度のチャンスですよ。頑張ってください

 

聡明な彼は、この一言から10を察したようで、「ですよね、笑」と一言返信があって、会話はそこで終わった。

 

さすがだなぁ、と思う。成功を収める人はこういったタイミングを選ぶ。きっと彼も数年後大きな成功を収めるのだろう。

 

起業したい人は今まさにチャンスなんじゃないかと直感的には思うのだが、なぜそう感じるのか、の理由を整理してみた。なお、自分はVCで働いた事もないので、下記は全くの素人感覚である。VCで働こうとしたことはあるが、採用面接ですべて落ちたので、おそらく投資系の業種にも全く向いていないのだと想像するので、自分の認識を書くことも恥ずかしいのだが、、、、。

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理由1:ベンチャー投資に向けられるお金が「すぐに無くなる」わけでは恐らくない

コロナ禍で、多くの企業の収益が悪化する事は目に見えており、例えば国内企業がベンチャーへの投資にあてる資金も縮小するのかもしれないが、現実的にその影響が出始めるのはしばらく先だと考えられる。既に(コロナの影響が出始める前までに)組成されたファンドにはお金が入っており、その資金は引き続きベンチャーに投資されるはずである。つまり、一定のタイムラグが発生するもので、現時点ではVC等の投資会社は、「投資するお金は十分持っている」状態だろう。彼らからすれば、マーケットが崩れて、バリュエーションが下がってくれた方が投資をしやすくなるので、待ちに待ったチャンス到来、といった感覚ではなかろうか。

 

実際に記事検索ベースで調べてみると、グローバルでVCのドライパウダー(待機資金)の額は2019年時点で$276 billion(≒30兆円)もあり、直近の4半期で$21 billion 増えているらしい。

 

ちなみにこういったタイムラグは個別企業の予算ベースでも起こっており、今上半期(4月~9月)の予算編成にコロナの影響を織り込めなかった大企業が多いと聞く。つまり、上半期は通常通り予算が執行されるが、コロナの影響を見直した下半期の予算は急激に絞られ、下半期は予算執行がかなり厳しくなる、というのだ。こうした影響はコンサルティング業にも大きな影響を及ぼしそうである(が故に、上期に長期の契約をとりたい、といった本音がちらほら聞こえてくる)。

 

理由2:結局ベンチャー投資にコロナの影響はあまりないかもしれない

終わってみればコロナはそれほどベンチャー投資に影響を与えない可能性もあると、最近の中国でのベンチャー投資の動向をレポートした記事をみて感じている。下の図の通り、確かに中国では年初からのベンチャー投資件数が昨対比6割程度に低迷しているが、ロックダウン解除後急速に回復しているのも事実である。

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1年後今の時期を振り返ってみれば、おいしい投資時期だったね、という事で済んでいる可能性もあるだろう。

 

理由3:少なくともシード投資には影響が少ないと考えられる

コロナの登場で世の中のビジネス環境が激変する中で、既に投資を受けていたベンチャーの次の調達は確かに厳しくなるかもしれない。革新的ベンチャーの代表格だったAirbnbも、資金調達で10%の金利を支払う事に合意した、という記事は記憶に新しい。コロナの影響が直撃する業界のスタートアップにとっては極めて厳しい環境だろう。

 

しかしながら、これから起業する企業へのシード投資は恐らく全く影響を受けず、むしろ増えるのだろうと想像する。実際に下表にまとめた通り、リーマンショック時(リーマンショックとコロナを比較してよいのかという疑問は常にあるのだが、、、)でも、シード投資は活況だったようである。VCからすれば、やはり「おいしい時期(仕込みまくりたい時期)」なのではないだろうか。

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理由4:大衆の感覚とは逆である

先日ツイッターに、LinkedIn経由のヘッドハンターからのお誘いが4月に倍増した、といった内容を投降したが、このことについて、人材事業で起業した知り合いに雑談の中で尋ねたところ、以下のような返信があった:

多分優秀な求職者探しが難しくなって、必死なんだと思います、笑。今市場に出てくる人、よっぽど優秀な人か半分クビみたいな人ばかりなので(後者が95%)

 

やはりそうなのかと思った。大衆(誤解を恐れずに平たく書けば愚民)の思考は、「今は会社にとどまって様子を見よう」なのである。

 

これは特にマッキンゼーやBCGに勤めているような、いわゆる「優等生層」には顕著だと考えられる。彼らはリスクアバースで、人生失敗したこともないので失敗する可能性が高そうな場面では様子を見るのだ。その代償として彼らは(金銭的に)大成功する事はない。せいぜいトップファームのパートナーになって、一桁億の年収を稼ぐのが top of the top であって、「時給が億」とか「総資産1000億円」といった人物にはならないし、そうなる事も心の底からは望んでいないのだ(むろん、彼らも頭はいいので、チャンスだと分かっているのだが体が動かなくなっているのである)。

 

逆に言えば、今会社を辞める、が、決してクビという意味ではない人は、傍から見るとそれこそ「頭がおかしいように見える」だろう。しかしながら、この感覚が非常に大切である。

 

大成功を収めるには、常に逆張り、正確に書けば逆張りからのトレンドフォローができる人間であって、今リスクを取れるだけ取る人が成功する。むろん、彼らは「リスクをとっている」という感覚すらなく、ごく自然に行動に移しているだけだろうが、、、(そういった感覚の持ち主が成功するのが常である)

 

 

まあ結局何が書きたかったかと言うと、なぜかストレス溜まってます、という事なのだが、笑