わかるブログ

人生の後半に向かっていくにあたり、自分の引き出しの中身を色々書いて一旦空にし、新たに学びを深めていかざるを得ない環境を作ろうと思って始めたブログ

不登校児

小学校の人間関係や勉強などは、のちの人生に大きな影響を与えないと思うので、小学校に行く・行かないは正直どちらでもいいなと思う

 

自分は小学校4年生まで学校に通っていない。いわゆる不登校児だった。子供のころは今では考えられないくらい神経質で(今の僕を知っている人は僕を今でも神経質だと思うかもしれないが、正直その比ではない)、自分の部屋にあるものの位置が少しでもずれると、動いた原因であろう母親に対して激怒し、1時間くらいかけて元の完璧な位置に戻す、という事を繰り返している少年だった。当然人見知りで、人混みや新しい人に出会うのは極めて苦手で、人と仲良くなるには相当時間がかかるタイプだった。

 

そんな人間が小学校に通い始めるとどうなるか。当然緊張に苛まれる。それは自分にとっては想定済みなわけなのだが、とにかく緊張してこわばっているので、食べ物ものどを通らない状況が続くのである。そんな中、しばらくして学校給食が始まった。初めての給食の日、緊張していた僕はろくに食べる事も出来ず、給食の時間の最後になって、残そうと思ってお盆を前に持っていったところ、当時の担任の先生が、「できるだけ食べなさい」と声をかけてきたのだ。教師という立場の人間からすると、当たり前の指摘だったとは思うが、当時の僕にとってはそれは人権侵害だった。そのあと席に戻り、泣きそうになりながら無理やり食べ物を口には入れていたが、「食べる食べないは生理的な現象であって、そこにまで口を出されるこんなコンクリートむき出しの場所にはいることができない」と心に決め(当時そこまでクリアに思考が回っていたわけではないが、、、)、その日の昼休みに、上履きのまま学校を脱走した。

 

家に帰り、母親が「どうしたの」と尋ねてきたが、「もう学校には行かない」としっかり告げて、その日以降学校には行かなくなってしまった。毎朝母親が、「今日はいかないの」と聞いてきたが、「行かない」と答えると後は咎められる事もなく、あとは部屋で過ごしていた。特に何をしていたわけでもなく、ひたすら天井の木の天板の木目の模様を覚えようとしていたことを記憶している。

 

それから20年近くたって、あれはちょうど自分が30歳のお正月だったような気がする。兄夫婦と甥っ子も含めて、家族で過ごしていた時に、甥っ子が僕に似ている、という話になり、「小学校には行けるのかな?笑」という会話から当時の話になった。母親にとっては僕が不登校だったことがつらい記憶だったようで、泣きながら話していたが、どうやら僕に強く学校に行くよう責めなかった理由は、あの日「行かない」と言った僕の言葉から明確な意思を感じたから、というのが理由らしい。曰く、「6歳の子供とはいえ、自分の意志で行かないと決めているのがわかった。それを私(母親)が変える事はできない」と。

 

その話を聞いて、母親は実にアドラー的考え方だなと思った。そういった思想を持った人間に育てられたので、アドラーの考え方は自分に自然となじむのだろう。

 

いずれにしろ、その後日本では小学校に通っていなかった僕だが、父親の仕事の関係でアメリカに転勤し、そこからは無事小学校に通うようになっていた。単純にアメリカの学校では給食というもの自体が存在しなかったからなのだが。

 

小学校の友人なんてクソみたいなもの」というのはその通りだと思う。自分も小中学校の友人とはFB上でもほぼ繋がっておらず、その後の人生に全く影響がなかったといっても過言ではない。なので、小学校に子供が行かない、と悩んでいる親や、小学校にいけないことで自分を責めている小学生がいたら、「そんなことどうでもいいですから、好きにした方がよい」と伝えてあげたい。