わかるブログ

人生の後半に向かっていくにあたり、自分の引き出しの中身を色々書いて一旦空にし、新たに学びを深めていかざるを得ない環境を作ろうと思って始めたブログ

スケジュールを引く上でのマインドセット

「スケジュールを引けって簡単に言うけど、スケジュールを引くには、スケジュールを引けと言った側も覚悟を決める必要があるんだぞ、ごらぁ」という個人の見解を書く

 

システム開発の管理に、曲がりなりにも携わるようになり、非常に憂鬱な作業の一つにスケジュール作成がある。憂鬱な理由は単純明快で、「意味がない」、無駄な作業だからである。より正確に書けば、「意味がなくなってしまう場合が多い」、という事で、意味を持たせるには、顧客・ベンダー含めプロジェクトに関わる全ての人間がある前提を満たさなければいけないと考えている。それは:

スケジュールを引くからには、そのスケジュールを死守する前提で、関わる全員が「(スケジュールを守るための)課題解決思考」で物事を考え、行動する

という事である。

 

言葉にすると非常に単純に、それこそ当たり前のように、聞こえるかもしれないが、この本当の意味を理解し、行動にも落し込めている人間は(自分の経験から推測するに)残念ながら実に少ない。

 

戦略コンサル時代もプロジェクトのスコープを決め、スケジュールを引く事はあったが、戦略コンサルが引くスケジュールは「なんちゃって」であり、ほとんど意味がない(こう断言しても、現役戦略コンサルも反論はないだろう、笑)。そもそも、細かいスケジュールを戦略コンサルが引く事はなく、引いてもざっくりしたものであり、かつ引いた本人も「翌日には変わるだろうな」と思っている場合が殆どだろう。

 

しかし、システム開発はやはりざっくりではまずく、特にウォーターフォール型の大規模な開発を進める際には、かなり精緻なスケジュール(≒WBS)に落とし込む必要が出てくる。

 

システム開発に限ったことではないが、スケジュールの引き方には大きく2つある

  1. エンドが初めから決まっており、そこから逆算して引く:
    分かりやすい例で言えば、オリンピックのためのシステム開発が挙げられる。オリンピックの開催時期は決定しており、そこに向けて開発を進める必要があり、遅れる事は、この場合許されないのである
  2. 積み上げ式で引く:
    必要なタスクと、各タスクにかかる工数をすべて洗い出し、積み上げで引いていくという、よく用いられる引き方だ

 

重要な事は、2つあるといっても結局どちらも最終的には一旦エンドが決まる、という事であり(もちろん1はそのエンドを動かすことができないわけだが、、、)、決まった後は、本来「それをどう守るのか」に移行する。

 

そう、現実には、移行するはずなのだが、あたかも移行してないように振る舞うプロジェクトメンバーが実に多い事がストレスの種となる。「3回の議論で要件定義をしなければいけないと合意したはずなのに、いつまでも決めないプロジェクトリーダー」、「決めたはずなのに後から付け足してくる、よくわからない脇役」、「突然、前提が違うのでは、とちゃぶ台をひっくり返すことでしかプレゼンスを出せない偉いと思われたい人」などなど、実例を考えると枚挙にいとまがない。

 

スケジュールを引く、という事は、覚悟を決める、という事であり、その覚悟は一人一人共有する必要がある。という事で、スケジュールを引いて管理していく際に、自分が気を付けている事は以下である:

  • スケジュールを引くリスクをそもそもちゃんと話す:バッファが詰まれるから結局長くなりがち、など
  • それでもスケジュールを引くのであれば、全員が関わる場できちんとスケジュールを合意する:それこそ全員に手形を押させる、くらいの勢いで覚悟を突き付ける
  • その後、スケジュールを管理していく際には、誰の責任でどうスケジュールに影響が出るのか、を明確化する:特に誰のどういった発言・行動で、という部分を曖昧にしない、相手が例え社長だろうが絶対に曖昧にしない、という事を徹底して、毎回各人の覚悟を確認し続ける

 

一方で、アジャイル開発というのは、ある意味「スケジュールを引かない」という逆転の発想のイノベーションだと思っており、できるだけアジャイル思想で自分は自分の人生も含めて管理していきたいと思っているのだが、それはまた別のエントリーで気が向いたら書こう。

 

 

自分が考える知性とは何か

ダラダラと書く。最近頭の中で一定の理解に達したある事について。おそらく多少長くなるだろう。

 

それは、「知性(平易に言い換えると、頭が良い)とは何か」という問いに対する(自分なりの)答えである。

 

別に哲学的な事を書きたいわけでもないし(そもそも知識も薄弱なので書けないし)、何か科学的根拠をもって示したい、という事でもない。ただ、自分の中でもやもやしていたものが、最近少しクリアになり、自分の中での納得度が一段上がった、とうだけである。頭の悪い人間(下記参照)が、薄っぺらい答えに気が付いただけの内容なので、他人から見れば本当にくだらない文章になってしまうのだが、自分にとっての備忘録として書いておきたい。

 

自分は極めて頭が悪いと思う。

 

それは10代のころからずっとそう感じ続けており(そう感じるだけの事象が色々とあった)、年齢も経験も上がって見方を変えてみても、やはりそうとしか考えられない。自分の中では「もう結論が出ている事」であり、自分の限界のようなものを痛感する日々なのである。

 

「自分は頭が悪い」と言うと、へりくだって聞こえる、あるいは嫌味に聞こえる、という人がいる。日本の最高学府とされる東京大学(⇐これは世界的に見ればクソ大学であるという嫌味を込めた文章である。参照:東大コンプレックス)を出て、生物学の分野では一流の米国大学院でPh.D.を取得し、最難関の就職先とされるBCGやマッキンゼーで働いた経験があって、何が頭が悪いのか、というわけである。しかし、そういった意見を言う人は単純に「知性とは何か」について1ミリも考えた事がなく、往々にして勉強する能力(=学力)や論理的思考能力を「頭の良さ」だと思い込み、知性についての自分なりの定義を持っていないだけである。逆に言えば、自分は「東大生だから頭がいい」とか「マッキンゼーだから頭がいい」と考えた事は一度もなく、事実、東大にもマッキンゼーにも自分に言わせれば極めて頭の悪い奴がたくさんいる、わけである。

 

考えてみると、「自分は極めて頭が悪い」という事に気が付けた事、それ自体はとても幸せな事だと思う。それに気が付く、という事は、常に、自分が「この人頭いいな」と感じる事ができる人が周りにいた、という事でもあり、そういった環境に偶然にしろ身をおけている事は幸運な事だろう。

 

大分前置きが長くなってしまったが、「頭が良いとはどういう事か」に対する自分なりの答えは、ものすごくシンプル、だがやや抽象的に書くと、

説明変数が7つくらいある重回帰分析の式を無意識のうちに解ける状態

という事になる。つまりは、

X = aA + bB + cC + dD + eE + fF + gG (小文字は係数、大文字は変数) 

みたいな式で本来解くべき問題の答えを、一瞬で、それこそ肌感で見極められる、というか嗅覚で感じ取れる、ような人の事を、自分は「頭がいい」と感じているのだ。

 

重回帰も機械学習の一種であると考えれば、要するに頭脳(=AI)がすぐれた人、みたいな事を言っているだけに過ぎず、「いや、そりゃあそういう人は頭いいだろう」と思うかもしれないが、もう少しいくつかの角度・観察事項から自分の意図を説明しておきたい。

 

まず自分が頭が良いと感じる人(経営者でも、研究者でも、学生でも、である)の特徴は、「0」と「1」という選択肢が提示された時に、0でも1でもない、「0.6」とか「0.4」くらいのところに自分なりの答えを見出し、絶妙なバランスで進んでいく事にある。特にビジネスシーンではこういった人のパフォーマンスに圧巻されるし、羨ましく思う。前述の状態は、先の式でいえば、A~Gの変数はすべてわかっている(=0と1という選択肢が与えられている)状況で、a~gの係数をどれも0にすることなく考慮し(=0と1の両極端などちらか一方を選択することなく)、最も期待リターンの高いXを求めている、といった事になると理解している。

 

この点において、自分は著しく能力が低い。より正確に言えば、自分は様々な選択肢を思いつく(A~Gの変数をすべて見つける)事は比較的よくできるのだが、そこから最も期待リターンの高いXを求める作業が全くできず、いつも極端な一つの選択肢に依存した解(つまり、X=1Aみたいな)を実行したがるのである。これは、A~Gの選択肢に少なくとも気が付く事ができる、という点で、まあ最底辺というわけでないが、Xを導き出せないという点において、社会では全く役に立たない。社会では役に立たない、というのは、より具体的に書けば、金銭的なリターンには一切結びつかない、という事である。

 

コンサルティングという職業は、ある側面で、クライアントに選択肢(つまりA~Gの存在)を提供する役割を担うと捉えているが、いくつかの場面で、本当に優れた経営者が、コンサルタントが提供した選択肢を自分なりに解釈して独自のX(それは自分では全く導き出せなかった)にたどり着き、実行していく姿を目にしてきた。その能力は傍から見れば神がかっているように見える。

 

そして、もう一つ、自分が明確に先に書いた答えにたどり着くきっかけになったのは、「投機(と考えられている事)で儲けを出せる、その道のプロ」を観察する機会があったからである。要するに、プロのギャンブラーの思考、にふれる機会があったのだ。その彼は為替(FX)歴15年ほどで、昨年は1万円チャレンジ(1月1日から1万円でスタートしていくらに増やせるかを競う)において、10カ月程度で1000万円に達していた(ちなみにとトップの人は8カ月で1億を超えたらしい)。そういったプロのギャンブラーは、頭の中で、色々な複雑な状況を直感的に捉えて、リスクリワードが高そうな場面でエントリーする「作業」をひたすら繰り返し、お金を稼いでいく。彼らは本能的に、本来先の重回帰式で表現されるような複雑な状況を見極めて、最も期待値の高い瞬間をかぎ分けていくのである。

 

調べてみると、このプロのギャンブラーの能力、というのは学問的な研究がなされており(それに早く気が付けない事自体、自分に嫌気がさす)、先の能力は「Risk Intelligence」と表現されるようである。つまり、言い換えれば自分はRisk Intelligenceが高い人を知性が高いと感じていたのだと思う。

 

このRisk Intelligenceは、先のプロのギャンブラーのようにお金という分かりやすいリターンに結び付く能力であり、面白ことにはサイコパスも高い人が多いようである。ちなみに、学力や論理的思考能力は、よく「金銭的リターンとは反比例する」と言われるように、頭がいいと一般的に考えられている人は大した金持ちにはならない事が多い。

 

もう少しこのRisk Intelligenceについて、学術的研究を含め理解を深めていきたいと考えている次第である。

 

 

自分へのメモ

自分へのメモのような文章で、わざわざブログに書く必要はないのだが、たまたまなぜか久しぶりに開いたのでここに書いておこう。

 

言われてみれば当たり前のことで、自分もこれまで意識していた事ではあるが、あらためて強く意識せねばいけないと最近思う事があった2点について、である。

 

1点目:

「並外れた成果を出す」という点において、大衆(=マジョリティー)は常に間違っている。常に、である

 

これは至極当たり前のことである。どんなことでもよいのだが、上位3%に入るようなパフォーマンスを出そうと思ったら、残り97%のマジョリティーがとる思考や行動は無視しなければいけない。仮に、大衆の考え方・行動が並外れたパフォーマンスにつながるなら、全員がハイパフォーマーになっているはずであるが、そうなっていない事から自明なように、大衆の考え方・行動をとっていては並外れた何かを成し遂げる事は出来ない。つまり、並外れた成果を出すためには、(大衆から見れば)常に「逆張り」にならざるを得ないのである。

 

 

2点目:

思考とは「思考を止めるため」にするのである 

 

生き物はそもそも思考など極力したくないのである。深い思考をするには非常に多くのエネルギーや時間を使う(実際に生物学的視点で見ても脳は最も多くのエネルギーを消費する臓器である)。それだけのコストを支払うのは、「思考をしなくてもできる」状態を作り出すためにある。そして、30代にもなると人生の95%は「思考をしなくてもできる」状態になっているという分析がある。つまり、毎日殆ど何も考えていない、のだ。

 

この2つを理解した上で、日々をどのように過ごしていくかは、(少なくとも日本のように平和な民主主義国家のもとでは)自分次第、つまり自分に託されているのであって、あとになって責めるとしたら自分しかいないのである。

 

 

新型コロナにみるコミュニケーションの質

このブログでも何度か触れたことがあるテーマだが、コミュニケーションの質、というのは非常に大切である。特に質の高い仕事をするためには、自分の意図を正確に言葉で表現して相手に伝える事ができる、というのは必須で、それができるだけで(あくまで自分の感覚であるが)世の中の人材の上位20%には入れると思う。逆に言えば、それだけ多くの人が、そもそも日本語ができていないし、「コミュニケーションをきちんととる」ということがどういう事か、考えた事すらないという状態だと思う。

 

先日も、同僚が下記のような文章をSlackで送ってきて、正直イライラしてしまった:

Slackのチャンネルで、クライアントとの契約状況について、XXさんに尋ねています。取り急ぎのご連絡です。

受け取った私は、「で?」という感じである。この文章はどういった意図で送ってきているのか、単なる情報共有か、相手に求めるアクションがあるのかないのか、そういった事が全く伝わらないので、正直自分の生産性が下がるだけの、クソメッセージである。

 

日々そういったクソメッセージは徹底的に無視しながら生きている私だが、その量があまりに多く悩んでいたところ、新型コロナが流行し始めた。その中で、イギリス政府の国民へのコミュニケーションの質が(他国に比べても)非常に高く、驚いた。YouTubeの動画のリンクを貼っておこう。

www.youtube.com

 

まず、新型コロナの感染状況がマクロにみて、どういった状況にあるのか、を明確に伝えている。すなわち「感染拡大を封じ込めるフェーズ」にあるのか、「(封じ込めは失敗し)感染拡大は仕方ないものの、それをできるだけ遅らせる(被害を小さくする)フェーズ」にあるのかである。後者に入ってしまった事は認めた上で、被害を最小限にとどめるために効果的な施策を、効果的なタイミングで打っていくために、協力を仰いでいる。

 

そして、疫学のエキスパートが、シミュレーション結果も示しつつ、一つ一つの施策に明確な科学的根拠をもって判断している事がよく伝わってくる:

  • 隠れた感染者が気づかぬうちに感染を拡大させてしまうのを避けるためにも、「重症の場合のみ」救急隊員を呼び、むやみに病院に行くことは避けてほしい
  • 子供の感染例は(その時点では)見られておらず、学校を閉鎖するという施策には根拠がとぼしい。少なくとも学校閉鎖がもたらす弊害(共働きの親が困るなど)とその施策の効果を比べた時に、現時点では社会にとって弊害の方が多いので、今はこの施策まで踏み込んでいない

など。

 

また、何かを禁じたとしても「人々が集中してそれを守れる」事が前提で、「守る」という意識を高く保てる期間を考えると、早く施策を打ちすぎてもダメで、タイミングが重要なんだ、といった事を説明している部分でも、思考の深さがうかがえる。

 

結果としては、日本の政府がとっている施策と類似しているわけだが、コミュニケーションの質を含むリーダーの資質という観点で「圧倒的な差」を感じる。

 

 

 

 

 

経営コンサルタントの専門性コンプレックス問題の先にある「無用の長物化への恐怖」問題

以前「経営コンサルタントの専門性コンプレックス問題」と題したエントリーを3回に分けて書いたが、これは新卒2~3年目のジュニアからマネージャーあたりの人間が抱える問題であり、自分も体験したことがある分、リアルにその存在を語れるものであった。

 

一方で、最近ある些細なオブザベーション(観察)から、その先、つまりパートナー以上になった人間には別の問題が生じているのではないかという仮説を持つに至った。

 

その観察というのは、パートナーになった人間と話すと、必ず「お金が欲しい」とか「投資を始めようかと思う」といった話題になるという事である。こちらは一切そんな話をする意図はないのに、彼らは勝手にどこかでその話題を織り込んでくる、というか主題が終わって次にする雑談は大体お金か投資が絡む話が多いのだ。

 

つい先日も、あるパートナーの方と議論をする機会があったのだが、「5億円欲しいんだよね」という話になった。「いやいや、もうすでに年収が5000万円超えて、ファームの中で生き残れば1億も行くんだから、貯めようと思えば貯まる金額じゃないですか」と振ると、「そんなことないよ~」という。で、一発あてるために最近起業ネタばかり考えている、というのだ。

 

その方には申し訳ないが、「ああ、このパターンか(まわりの人をたきつけて起業させて、自分はほぼリスクフリーで株だけ持つチャンスがないかを探っているパターン)」と心の中で思いつつ、なぜパートナーに昇進した人間は似たような雑談しかしないのかと考えてみると、彼らは彼らで「無用の長物化への恐怖」を抱えているのではないだろうか。

 

経営コンサルティングファームでパートナーになった人は、ジュニアの視点から見ると「何もできないおじさん」に見える事がある。ロジ周りはすべて秘書に任せ、自分では自分が参加する会議の時間すら把握していない様子などを見て、「この人、このファームの外で生きていけるのだろうか」と素直に疑問に思う事がある、という意味だが、当の本人もそういった恐怖を薄々というか、リアルに感じているのではないだろうか。

 

自分が経験したことがない世界なので、これ以上何も書かないが、テーマとしては面白いなと思う。つまり、一段広くとらえると、経営コンサルタントという職業のキャリア問題だ。日本に経営コンサルティングという職業ができたのが、BCGが東京にオフィスを開設した1966年だとして、新卒採用を急速に拡大し始めたのが2000~2005年くらいからだとすると、新卒経営コンサルでキャリアに悩む人がいま大量に世の中にあふれ始めているのだろうと思う。実はそのリアルを感じる場面に日々直面しているのだが、それはまた次回のエントリーで書こう。

 

 

 

コンサル能力の飛躍

自分のコンサル能力が非連続的に伸びた、と感じた事がある。それは、新卒で入ったBCGを卒業し、しばらく個人事業主やら起業やらを経験した後に入ったマッキンゼーでのことである。

 

一般的な事業会社やベンチャー、はたまた(弱小ベンチャーで短い期間だが)社長というポジションを経験したせいか、自分が作るアウトプットがより経営者視点でシャープに、「芯を食ったもの」になっていると実感できるようになったのだ。パワポを何枚も作るのではなく、濃度が極めて高い一枚(=それだけで経営判断できる)が自然と作れたり、直線ではなく曲線を用いたコンセプチュアルな一枚が作れたりするようになっていることに気が付いた。

 

それは周りの目から見ても少し異質だったようで、純血(=新卒マッキンゼー)のジュニアメンバーから、「吉村さんは平たく言えば、“この一枚で勝負しよう、自分が責任取るから”というスタイルですよね。マッキンゼーらしくはないけど、笑」と言われたことがある。

 

こういった経験から推測すると、新卒で経営コンサルに入って数年後に一度外の世界を色々体験する事は、いずれコンサルキャリアに戻るにしてもかなりプラスなのかもしれない。特にどんな小さい会社でも、取締役のポジションを経験すると、がらりと自分の視座が変わると感じる。

 

 

経営コンサルで将来パートナーまで行こうと思っている人でも、途中で寄り道してあえて別のキャリアを少し経験してみるというのは、悪くないのかもしれない。

働き方改革

日経プラス10を見ていたら、働き方改革関連法が4月から中小企業にも適用されるという中で、スマートファクトリーが注目されているという特集が組まれていた。製造業における労働生産性を見ると、2000年には日本は世界で1位だったが、今では14位らしい。

 

働き方改革」というと、一般的には上記のスマートファクトリーやAIの導入といった、ツールの導入による人の労働の代替に注目されがちだが、本質的には働く人の「判断力(どこで、誰が判断するのか)」と「妥協力(どれくらいの質でよいとするのか)」の2点を変えていく事が重要だと思う。重要というより、むしろそちらの方がはるかにインパクトが大きいと、日々感じている。

 

例えば、あるコンサルティングプロジェクトで、現場で発生した問題に対し、「解決にはXXと〇〇の方法があると思うのですが、合理的に考えるとXXの方がいいので、XXにしましょう」と提案したところ、現場の人に「それで問題ないとは思うものの、念のため部長に確認しないと進められないです」と言われ、多忙な部長を捕まえて説明しOKをもらって進める、という事はよくある(というか、そんなことばかりである)。そこで(部長の忙しさによっては)半日~1日くらい平気でロスするのだが、そもそも現場が能動的に判断し、XXの方法でよいとその場で決められればこういった事はなくなるのである。

 

当然のことながら現場に判断の裁量を多く与えれば、ミスも増えるだろう。そこで、組織の「妥協力」が重要となる。「それをミスすると会社が傾く」という、本当に重要な判断というものは実は非常に少ないと思っている。日々現場で行う事は多少のミスがあっても何とかリカバリーできるものだし、そのミスの中から人が成長していくものだと思う。なので、何かいまいちな判断があっても、「まあいいか、今回はXXでいこう。次回からは〇〇の方がよいと思うけど、まあ仕方ないね」と言って、物事が進めばそれでよい。

 

このように、判断力と妥協力を変えていく事の方が、少なくともホワイトカラーにとってはAIの導入よりもはるかに生産性の向上に寄与すると思う。

 

 

 

科学の社会実装が最も遅れている領域

E PRONTO 東京大学中央食堂店。東京大学安田講堂の下あたりにある中央食堂の中二階にあるカフェの正式名称だ。自分が東大の学生だった頃は、ただ中央食堂のメニューが陳列されている味気ない場所だったのだが、いつぞやカフェに改装されたらしく、非常にいい空間だなぁ、と感じて本日2回目の利用である。

 

なぜ心地よい空間なのか。必然と偶然が入り混じってそうなっているのだと思うが、要素を列挙してみると下記のようになった:

偶然的要素(意図せずたまたまそうなった)

  • 下からの照明効果:地下の広い空間に中央食堂が広がっており、その上に浮いているような構造になっているがために、下の中央食堂から上がってくる光にやさしく包み込まれるような感覚になる
  • 天井の低さと下の広さのコントラスト:中二階の天井は低めなのだが、一方で下を見ると広い中央食堂が広がっており、そのコントラストが何とも言えない空間を作り出している
  • ちょうどよい混み具合:利用する時間がたいてい週末午後だからかもしれないが、いつもちょうどよい混み具合だ。すいているわけでもなく、座る場所がないわけでもない、という感じ。安田講堂付近の広場にはいつ行っても主に中国からの観光客と思しき人々がたくさんいるが、まさか下にカフェ・食堂が存在するとは思わないのか、その群衆が流れ込んでくるわけでもなく、いつもちょうどよい感じ

必然的要素(意図してそうなっていると考えられる)

  • 視線が合わないテーブル配置:隣や向かいのテーブルに座る人と視線が極力合わないような配置になっており、あってしまいそうな部分には仕切りが設置されている。明らかに「視線が合わないように」という事を意識して設計されていると考えられる
  • 余裕を持たせた導線設計:テーブル配置と関係するが、導線もよく考えられている、と勝手に理解している。(図がないので言葉で書いても伝わらないが)大型のテーブルの壁側にも(テーブルをくっつけてしまうのではなく)わざわざ導線を確保してあり、どこに座っても閉塞感が少ない
  • 客層のバランス:これは大学の中にあるので当然のことだが、学生が多い。その中に自分のような中年のおじさんや、初老の人々が混じっている感じ。たいてい学生が7~8割くらいで、それ以外が2割くらい。学生は勉強をしている人が多く、今日は隣で哲学の議論をしているグループがおり、ニーチェについて話していたが、若い人が多いとやはり場にエネルギーが生じており、自分のような中年のおじさんにとってはそれがむしろ心地よい

 

こんなことを考えつつ今日は座っていたのだが、常日頃考えている事として、『人間が何を心地よいと感じるか、や、人間がある環境下でどのような心理になりどう行動するか、といった事は、古くから最もよく研究されている分野であるにも関わらず、その成果の社会実装は最も遅れているのではないか』という事がある。

 

社会科学、行動科学、行動心理学、はたまた生命科学など、様々な分野にまたがって研究されている事であるとは思うが、人間の最大の関心事の一つはヒトそのものであって、その思考や行動は最もよく研究対象になっている。一方で、その成果は十分活かされているのだろうか?前述のテーブル配置や導線設計などには、科学的な研究成果かどうかは分からないが、デザイナーの知見や経験知が織り込まれているのかと思うが、、、。

 

逆に言うと、そういった分野での科学的知見を社会実装していく分野には、非常に大きな白地がまだまだ広がっていると考えられ、スタートアップにとっても大きなチャンスなのではないか。昨年広告や他者のエントリーで見かける事が多かった「モチベーションクラウド」というサービスも、まさにそこに切り込んでいると思っており、「モチベーション」というふわっとしている、しかしどの企業も重要でできれば上げたいと何となく考えている、ものを可視化するというのが新鮮に映っているのだと思う。しかし考えてみれば、モチベーションのコントロールの仕方はアカデミック研究のレベルでは色々知見がたまっており、それを咀嚼して実用化していくだけでかなりのインパクトがありそうだ。

 

似たようなことで自分が昔から興味を持っているのはインセンティブ設計である。組織はインセンティブ設計一つでがらりと変わりえるのだが、その設計に科学的知見はあまり反映されていないように思う。経営コンサルにインセンティブ設計を頼むと、「ロジカルに考えて正しそうな」提案(給与テーブルの階段をいじったり)はしてくれても、最新の行動科学/心理学の知見に基づいた(一見直感に反する)提案は出てこなさそうだ。しかしながら、インセンティブ設計をどのように行えばいいのか、困っているクライアントは多く、ニーズも非常に大きそうである。

 

下記のTED Talkはは2009年に公開されたもののようであるが、動画の中で懸念されている状況はここ10年、あまり状況は変わっていないように思う。この分野で何かサービス化できないかな。

www.ted.com

 

 

 

 

経営コンサルの「専門性コンプレックス」問題(最終回)

前回までのエントリーで、経営コンサルティングファームで働くコンサルタントがしばしば陥る「専門性コンプレックス」は誤解が原因である事、日本とアメリカではかなり事情が異なる事などを述べた。もう一つ、最後に触れておきたい要素として、業界特異性がある。

 

日本においては、ジェネラリスト型のコンサルタントが多いものの、実際には専門性の度合いは関わっている業界によって差異が見られる。分かりやすいのはヘルスケア(主に製薬・メドテック企業)で、どのファームにおいてもヘルスケアは「村」になりやすい。つまり、ある程度固定されたメンバーで案件を回していく(言い換えれば、一度案件に関わると囲われやすい)環境になりやすい。これは、医薬品・医療機器の市場が特異的であり、製薬企業やメドテックの案件をこなすには「経営コンサルティングの文脈においての専門性」だけでなく、かなり深い業界の専門的知識が求められる事が大きな要因である。医薬品の市場と言っても、各国で規制も全く異なるので(例えば、日本では薬価は実質的に国が決めており規制産業である一方で、アメリカは自由市場に近い)そういった事は当たり前のように精通していないと、コンサルティングなど到底できないのである。

 

この業界と専門性の関係について、個人的に興味を持っているのは、デジタル革命が全業界を現在進行形で襲っている事の影響である。

 

大分前のエントリーでGAFAは経営コンサルをあまり使わないことについて書いた。これは、誤解を恐れず、ものすごく端的に書けば、下記2点が原因だと思う:

  • 経営コンサルタントが、GAFA内部の人以上の知見を提供できない
  • IT業界においては「実践」に意味があるので、知見の提供に価値を感じない

 

まず1点目について、デジタル周りは異常に進化が早く(つまり現時点の知見がすぐに陳腐化する)、また関係する領域も非常に広い(要するにオンラインになっているモノすべてが含まれる、と考えられる)。なので、最新の知見を持ち続けること自体が非常に難しい。加えて、デジタル領域において、意味がある「生きた知見」というものは実際に事業を実践する中でしか学べない側面があり、自らECサイトやらSaaSやらを運営していない経営コンサルティングファームコンサルタントが生きた知見を持つことは難しい。

 

このような背景があるが故に、以前書いた通り、

マッキンゼーやBCGも、Ex-GoogleやEx-Amazonを採用し、知見を社内に持とうと努力はしているが、悲しいかな、「Ex」になってしまった瞬間にその人の知見はどんどん古くなり陳腐化していく。それを持って、GAFA内部の人をも驚かせるような深い技術的・業界動向的示唆を出すことは不可能なのであり、結局はGAFAの中にいて思慮深い人の方がはるかに未来の予想を正確にできる、という事になる。

のである。

 

また2点目について、IT業界においては、経営コンサルタントが何か提案したとすると、「じゃあやってみてよ」と言われるのがオチだ。「このサービスが伸びるのでやるべきです」と仮にGoogleの役員に対して提案しようものなら、「そんなに言うなら、エンジには出すからすぐやってみて。それが証明できたらフィー払うよ」と言われるだろう。彼らは実践を重視しているが故に、知見の提供に価値を感じにくいのだと思う。

 

こういった環境の中で、現在経営コンサルティングファーム各社は、(言い方は悪いが)それほど高度な、生きた知見も必要としない、全くデジタル対応できていない伝統的企業に対して、「デジタルトランスフォーメーション」というふわっとしたバズワードを設定して、デジタル改革を推し進めるプロジェクトを(傍から見れば)異常に高い値段で売りつけたりしている。しかし、今はそれでよいとしても、こういった動きは、デジタル革命が進み、伝統的企業が新興IT企業群に駆逐、又は伝統的企業自体が最先端のIT企業に脱皮した後は、どうなるのだろうか?その時経営コンサルタントはデジタル領域において、どのようにサービス提供しているのだろうか?BCG Digital Venturesのように、リスクをとって伝統的企業のサービス構築を支援しつつ、自分たちでサービス運営する事を通じて高度な知見を溜めたりするのが正解なのだろうか。

 

こうした、デジタル革命の経営コンサルティングファームへの影響、彼らの専門性の持ち方の変化、また、それに対応すべく色々な試行錯誤が繰り広げられている(そして今後も繰り広げられていく)ことは興味をもって追っていきたいなと思う。

 

経営コンサルの「専門性コンプレックス」問題(その2)

前回のエントリーで、経営コンサルティングファームで働くコンサルタントがしばしば陥る「専門性コンプレックス」は誤解が原因である事が多い、といった主旨の事を述べたが、この専門性に関する状況は日本と海外で大きく異なる。「日本対海外」という対比というよりは、より正確に言えば、当該国における経営コンサルティング業界の発展度合いに依存している、のだと思う。

 

経営コンサルティングという商売はアメリカ資本主義の中で生まれたもので、当然のことながらアメリカの経営コンサルティング業界が最も発展・進化していると考えられる。幸いなことに、自分はBCG時代、2年ほどボストンオフィスに勤務し、アメリカの経営コンサルティング環境を肌で感じる機会があった。

 

確かに専門性に関する状況は日本とアメリカでは大きく違った。ものすごく平易に書けば、「アメリカでは専門性(一般的な意味で、特定の業界/機能に対する深い知見を有する事。時として実務レベルの知識を含む)を持ったコンサルタント(エキスパートと呼ばれる)がはるかに多く、新卒でも早い段階で特定の業界に特化していく事が求められていた」という事なのだが、抽象的に書いても面白くなさそうなので、いくつか関連する具体的観察事項を書いてみようと思う。

 

具体的に取り上げるのは、以下の4つである:

  • 最も良いステコミ(SC)とはどのようなものか?に対する答え
  • パートナーのみがSCでのプレゼンを許される
  • 集められるエキスパートが半端ない
  • 業界/機能単位での採用活動

 

ボストンオフィスにいたころ、一緒に仕事をするパートナーに「最も良いSC(ステコミ)はどのようなものか?」と聞いていたことがあった。それに対する回答は、人によらず驚くほど一緒で、「デック(スライドの束)を一度も開かず、相手の経営者と口頭で議論して終わるSCだ」というものだった。その理由を尋ねると、「コンサルティングとは本来そういうものだ」という。確かに「Consult」という動詞の意味を調べると、「seek information or advice from someone, especially an expert or professional」とある。この動詞は医師や弁護士に相談する時にも用いられるわけだが、このことからも分かるように、経営コンサルティングとは、経営者が(医師と話すのと同じように)「経営課題のエキスパートやプロフェッショナル」と話をして知見を得たり判断をしたりする、そういう商売であり、言葉の意味からも対峙するコンサルタントはそもそもエキスパートでなければならないのだ。

 

アメリカのクライアントはコンサルタントに非常に専門的な知識を求めている。このことはSCのプレゼンの様子の違いからもうかがい知れる。ボストンオフィスにいたころに驚いたことの一つは、パートナーがSCのプレゼンの練習をチームメンバーの前で行う事がしばしばあったこと、そしてSCのプレゼンをジュニアメンバーが行う事は皆無であったこと、である。これは日本とは大きく異なっていた。事実、私が初めてクライアント企業の社長の前でプレゼンをしたのは、BCGに入社してちょうど5か月後だった。そのように、日本ではジュニアメンバーにあえてプレゼンさせるといった事もある程度の頻度で起こるのだが、アメリカではそれは極めて稀だった。理由はシンプルで、クライアントの経営者がコンサルタント(つまりエキスパート)と認めているのはパートナーのみだったからだ。クライアントだって経営コンサルティングファームの事情はよく把握しており、特段の専門性がないジュニアメンバーが入社しては色々な実務を担っていることは知っているが、SCの場で期待しているのはコンサルタントという名の経営課題のエキスパートに相談して知見を得る事であり、パートナー以外はコンサルタントと認識されていなかった。逆に言えば、パートナーになるには特定分野に関してかなりの専門性を有していることが当然で、それを期待されていたのである。

 

パートナーがSCのプレゼンの練習をする際に、しばしば議論されていたのが、どのエキスパートを同席させるべきか、という問題だった。「この部分は自分が話しても違和感ないと思うが、ここはもっと(知見の)厚みを持たせたいので、そうだなぁ、〇〇君は同席させられるかな?あるいは××君の方がいいかな、どう思う?」といったやり取りがなされるのだ。つまりチームとして専門性を補完し、クライアントに最大の付加価値を提供するための議論である。

 

そして、アメリカの場合、この〇〇君や××君が日本では考えられないほど、半端ない専門性をもった人物であることが多かった。そんな人物の一人で、自分がルームメイト(BCGのボストンオフィスではジュニアメンバーでも2名ずつ個室が与えられていた)になったことがあるDavidは、「製薬企業におけるR&D(研究開発部門)の中のR(研究)組織の体制(組織形態)」に関するエキスパートだった。ものすごくニッチに聞こえるかもしれないが、彼の頭の中には大手製薬企業各社の研究部門の過去から直近の組織体系が入っており、「研究部門の生産性をあげるには現在〇〇といった組織体制がトレンドで、実際にそれを採用した製薬大手A社は生産性がXX程度改善しているようだ」といった事を流暢に語る事ができた。

 

ヘルスケア分野のみならず、TMT分野でもものすごくニッチなBtoBシェアリングサービスに超絶詳しい人(彼は欧州市場のエキスパートだった)や、LNG液化天然ガス)のトレーディングに関するコンサルティング案件のみに従事しており、その分野の事なら何でも知っている、かつ比較的狭い業界なので業界の人とすべてつながっている、といったエキスパートと会った事がある。

 

といったレベルで、ことアメリカにおいては専門性の高いコンサルタントが数多く存在している。彼らは、社内的にはエキスパートトラックと呼ばれるキャリアトラックに乗っていることも多かったが、そもそも自分が入社した段階では東京オフィスにおいてはこのエキスパートトラックすら存在していなかった(おそらく現在もこのキャリアパスにのっかっているコンサルタントは日本ではかなり希少、又は皆無だと思われる)

 

そしてこういったエキスパートは、ファーム全体で採用するというよりは、業界/機能単位で採用されていた。つまり、例えばDavidの場合、入社段階でヘルスケアグループによって採用されており、当然のことながら製薬系の案件しか担当しない前提だった。社内の業界/機能グループが、こんな専門家が必要だから採用しよう、とある程度独自に採用活動を行う事が当たり前に行われていた。

 

新卒に関しても、当然採用はオフィス単位で、入社時点では専門性は求められていなかったものの、アメリカの場合マネージャーにあがるタイミングではある程度従事する業界/機能を決めていることが暗黙の了解だったように思う。

 

このように、アメリカにおいては、専門性が高いコンサルタントがかなりの割合で存在しており、日本のコンサルタントが感じるような専門性問題は相対的に生じないのかもしれない。逆になぜ日本では専門性問題が生じるのかと言えば、日本の経営コンサルティング業界がまだそれほど深化しておらず、クライアントも専門家よりはジェネラリストを重宝する段階にまだとどまっているからかもしれない(遅かれ早かれその状況は変わるだろう)。いずれにせよ、日本のジェネラリスト嗜好は世界的に見ればむしろ珍しいのだ、と思っておくとよいと思う。

 

しかしながら、この専門性問題は業界に依存する部分もあるのだ。例えばヘルスケアは比較的専門性が高まりやすい構造にある。この業界視点での考察はまた次回のエントリーで書くとしよう(今回も長くかいてしまったな、これ、、、)