わかるブログ

人生の後半に向かっていくにあたり、自分の引き出しの中身を色々書いて一旦空にし、新たに学びを深めていかざるを得ない環境を作ろうと思って始めたブログ

謝罪はファクトベースであってはならない

吉本興行の岡本社長にもう少し早く教えてあげたかった(笑)。謝罪はファクトベースではだめです。

 

戦略コンサルタント、特にマッキンゼーの方々は、「ファクトベース」という言葉が好きだ。彼らは、自分の解釈や意見、といった主観的なものとは切り離し、何がファクトかをしっかり理解したうえで、それに基づき思考を深めていく。それはコンサルティングの現場ではもちろん、採用面談においても同様である。

 

このブログで、以前、「フィードバックはファクトベースで」行うべしという事と、「非言語的なコミュニケーションを極める」ことの大切さを書いた。そもそもなぜフィードバックはファクトベースがよいのか。先の記事では、「フィードバックを受け入れやすくなるから」と簡単に記載してしまったが、もう少し詳しく解説しておこう。

 

まず前提として、コミュニケーションは言語的要素(実際に話している言葉の一言一言)と、非言語的要素からなり、非言語的要素が9割を占めると言われているのは、以前書いたとおりである。ファクトを説明する、という事は、実はそのコミュニケーションにおける言語的要素の比率を高め、非言語的要素の比率を下げる効果がある。想像してみてほしい。誰かが、その人が体験したあるシーンを、人にファクトとして説明しようとしている場合、「ああ、なんか情景を説明しようとしてるんだな」と聞き手が理解した瞬間、聞き手の心は、その説明文に集中するだろう。これはつまり、言語的要素に集中して聞き入っている状態で、ここでは非言語的要素の占める割合は相対的に小さい。

 

フィードバックの場面で、ファクトベースで語るとフィードバックそのものを受け入れやすくなるのは、非言語的要素の割合が下がる、というのが一因である。例えばフィードバックで、ファクトを説明されてそれを理解しようと聞いているとき、しゃべっている本人の感情的要素はあまり気にならない。一方で、「いやー、君はロジカルシンキング弱いね」と、ファクト抜きで上からフィードバックされると、非言語的要素の占める割合が高いが故に、「こいつ、俺の何みてるんだよ」とか、「ちゃんと見てくれているのか」といった不満が渦巻き始めるのである。こういった事を避け、「公平に見てくれている」という印象を残すために、フィードバックはファクトベースで語るのが効果的なのだ。

 

一方で、謝罪の場面はどうかと言えば、多くの場合真逆のコミュニケーションをとるのが正しい。つまり、ファクトベースなどというつまらない考えは捨て去り、言語的要素を著しく下げ、非言語的要素を前面にだして、謝るのが効果的なのである。相手が引くほど泣く、声を震わせる、そういった非言語的要素が、謝罪の意を伝えるのに重要であって、間違っても言語的要素(つまりはファクト)で争ってはいけない。謝罪する、と決めた瞬間に、細かいファクトの違いなどはもうどうでもよく、とにかく謝罪の意を伝えるべく、非言語的要素丸出しのコミュニケーションに徹した方が上手くいく確率がはるかに高まる。自分の認識を訂正したり、事実を正したり、言語的要素で争い始めた瞬間に、謝罪の意は加速度的に伝わりにくくなる。岡本社長が失敗したのはその点で、多少のファクトの差異(例えば、「クビにする力があると言ったかどうか」)は飲み込んで、非言語的コミュニケーションを全面的に出した方がよかった。

 

もちろん謝罪をするといっても譲れない部分はあるだろう。その場合は、「絶対にこれだけは譲らない」という部分を明確に決めて、戦略的にそこだけ争う、そこだけ言語的要素を強めたコミュニケーションにするようにするとよい。

 

宮迫・亮さんの会見は実にその点が上手かったと思う。具体的には:

  • 真実を明らかにする、という全体設定をしていた
  • 認めるべき非は全面的に謝罪し、頻繁に涙を見せ、声を震わせ、非言語的要素を全面的にだしたコミュニケーションで謝罪の意を伝えた
  • その謝罪の意が伝わったからこそ、全体設定が生きてきて、「こいつらはうそをついていない」という印象にうまくつなげた
  • 一方で、譲らない部分、つまり、反社会勢力とはつながりがない、という部分については言語的要素を強めたコミュニケ―ションで徹底的に守った

実際の会見を見ると、上記の4点目、反社会的勢力とつながっていない、という部分のコミュニケーションは、やはりファクトを争うが故に言語的要素の強いコミュニケーションとなり、かなり危うい場面があった。例えば、宮迫さんが文春の第2報については、「承認もいて、一切金銭の授受もつながりはない」と説明したのに対して、記者が「じゃあ法的措置もとるんですか」と突っ込んだ場面。彼の答えは「今は考えられない」といった内容で、それ以上は記者もツッコまなかったが、冷静に聞いている人間としては「訴えるのか訴えないのかどっちですか?」とか「今はってことは、実際にはいつかは訴えるんですよね、いつですか?」と畳みかけたい衝動はあった。それがもしあの場で起こっていたら、謝罪の印象が少し変わっていたように思う。

 

まあ、非言語的要素に徹しようと謝罪会見をしても、記者は逆に言語的要素、つまりファクトを争うような質問を投げかけてきて、それに応戦したら一巻の終わり、謝罪の意が十分伝わらなくなってしまうわけで、中々謝罪会見も難しいものだなと思う。うまくやる人、失敗する人、色々いてこれはこれで分析対象として面白いなと思います。